昨日は、希望が丘から西谷まで歩きました。
途中聴いた曲は、1904年東京生まれの橋本國彦の作品。
CDの解説によると、幼少時代父の転勤で大阪に移り、
幼い頃から西洋音楽に親しみ、
中学時代にはヴァイオリンを学んだ。
やがて、作曲家を志すようになり、
1923年に東京音楽学校(現東京藝術大学)に入学した。
しかし、その当時学校には作曲科がなかったので、
ヴァイオリンを専攻し、作曲についてはほとんど独学だった。
1920年代後半には歌曲の作曲に取り組み、
ドビュッシーやラヴェルに影響を受けた作品だけでなく、
シェーンベルクの影響を受けた歌曲も残しており、
映画主題歌やCMソング、歌謡曲など、
クラシックの分野にとどまらない活動をした。
ヴァイオリニストとしては1934年までリサイタル、
レコーディング活動を行ったようで、その弟子の一人に
指揮者として大成した朝比奈隆がいる。
1934年から1937年には欧州に留学し、
この時にベルクの「ヴォツェック」を観て、
強い衝撃を受け、帰国前に彼から教えを受けたようだ。
交響組曲「天女と漁夫」はヨーロッパに留学する前の作品で、
日本舞踏家の依頼で作曲され、1932年に初演されている。
後に彼はそれを演奏会用の音楽として交響組曲にまとめた。
曲は「羽衣伝説」に基づく作品で、ラヴェルなどを思わせ、
「序奏」のけだるい感じからして、印象派音楽的である。
「漁夫の主題」をフルートが吹く「黎明」も魅力的で、
「漁夫たちの踊り」は、旋律は日本的でありながら、
その曲の明るい感じは、全くもってフランス的なのだ。
最初に出てきた「漁夫の主題」が、何度も繰り返される。
「漁夫の独舞」は、ファゴット・ソロがフルートなどと絡み、
おどけた感じを出しており、次の「漁夫と天女の踊り」でも、
その感じを残しながら、踊りの音楽はしゃれた感じでもある。
時々「漁夫の主題」が現れ、
曲は二つの主題で盛り上がっていく。
日本的な情緒的な部分も顔を出し、
ヴァイオリン・ソロによって始まる「天女の舞」に続く。
天女の舞に漁夫は魅せられ、羽衣を返すシーンになる。
「天女の舞」の主題は終曲「天女の昇天」で、
クライマックスにふさわしい壮大な音楽となり、
華やかに曲を終わる。
大戦中、時局にあった愛国主義を掲げた作品を書いた彼は、
敗戦後、そのことの責任を取り、
それまで教鞭をとっていた母校の職を辞したらしい。
そして、懺悔の気持ちから作品も書いたようである。
このような作曲家がいて、
次世代の作曲家たちの活躍があるのだなあと思う。
彼の門下には、中田喜直、団伊玖磨、芥川也寸志、
そして黛敏郎など有名な作曲家たちが名を連ねている。
途中聴いた曲は、1904年東京生まれの橋本國彦の作品。
CDの解説によると、幼少時代父の転勤で大阪に移り、
幼い頃から西洋音楽に親しみ、
中学時代にはヴァイオリンを学んだ。
やがて、作曲家を志すようになり、
1923年に東京音楽学校(現東京藝術大学)に入学した。
しかし、その当時学校には作曲科がなかったので、
ヴァイオリンを専攻し、作曲についてはほとんど独学だった。
1920年代後半には歌曲の作曲に取り組み、
ドビュッシーやラヴェルに影響を受けた作品だけでなく、
シェーンベルクの影響を受けた歌曲も残しており、
映画主題歌やCMソング、歌謡曲など、
クラシックの分野にとどまらない活動をした。
ヴァイオリニストとしては1934年までリサイタル、
レコーディング活動を行ったようで、その弟子の一人に
指揮者として大成した朝比奈隆がいる。
1934年から1937年には欧州に留学し、
この時にベルクの「ヴォツェック」を観て、
強い衝撃を受け、帰国前に彼から教えを受けたようだ。
交響組曲「天女と漁夫」はヨーロッパに留学する前の作品で、
日本舞踏家の依頼で作曲され、1932年に初演されている。
後に彼はそれを演奏会用の音楽として交響組曲にまとめた。
曲は「羽衣伝説」に基づく作品で、ラヴェルなどを思わせ、
「序奏」のけだるい感じからして、印象派音楽的である。
「漁夫の主題」をフルートが吹く「黎明」も魅力的で、
「漁夫たちの踊り」は、旋律は日本的でありながら、
その曲の明るい感じは、全くもってフランス的なのだ。
最初に出てきた「漁夫の主題」が、何度も繰り返される。
「漁夫の独舞」は、ファゴット・ソロがフルートなどと絡み、
おどけた感じを出しており、次の「漁夫と天女の踊り」でも、
その感じを残しながら、踊りの音楽はしゃれた感じでもある。
時々「漁夫の主題」が現れ、
曲は二つの主題で盛り上がっていく。
日本的な情緒的な部分も顔を出し、
ヴァイオリン・ソロによって始まる「天女の舞」に続く。
天女の舞に漁夫は魅せられ、羽衣を返すシーンになる。
「天女の舞」の主題は終曲「天女の昇天」で、
クライマックスにふさわしい壮大な音楽となり、
華やかに曲を終わる。
大戦中、時局にあった愛国主義を掲げた作品を書いた彼は、
敗戦後、そのことの責任を取り、
それまで教鞭をとっていた母校の職を辞したらしい。
そして、懺悔の気持ちから作品も書いたようである。
このような作曲家がいて、
次世代の作曲家たちの活躍があるのだなあと思う。
彼の門下には、中田喜直、団伊玖磨、芥川也寸志、
そして黛敏郎など有名な作曲家たちが名を連ねている。