Mars&Jupiter

おおくぼっちの屋根裏部屋へようこそ!

横浜から星川まで、オルフの「カルミナ・ブラーナ」の「居酒屋にて」を聴きながら歩く

2007-11-21 07:51:11 | カール・オルフの作品
昨日は横浜から星川駅まで歩きました。
昨日歩く途中聴いた「カルミナ・ブラーナ」の演奏は、
ヨッフム指揮、ベルリン国立歌劇場管弦楽団のものだ。
1960年代の録音にしては、とてもいい。
ヨッフム=ブルックナーの指揮者
という印象が、強いかもしれないが、
私の考えるところ、ブルックナーの演奏よりも
「カルミナ・ブラーナ」の演奏の方が、
ヨッフムにあっているのではないかと思われるほど、
彼の演奏を代表する名盤の一つといっていいと思う。

第2部の「居酒屋にて(In Taberna)」は、
「胸のうちは、抑えようもない
( Estuans interius)」で始まる。
こみあげてくる怒りの気持ちをぶちまけながら、
少し自暴自棄になっているところが人間らしい、
中世のヨーロッパの人々だって、
現代のわれわれと同じようにストレスを抱え、
もがいて生きているのだなと思えば、
遠いヨーロッパ中世の人々の生活も
身近な世界になってくるのだ。
自由自在に歌うフィッシャー・ディスカウの歌い方が
気になる人もいるかもしれないが、
これはこれでいいのかもしれない。

「昔は湖に住まっていた(Olim lacus colueram)」は、
最初に聴いたときにまず「へぇ」と思ったのである。
料理を食べる人たちの世界を描くならともかく、
料理として食べられる鳥の側からの嘆きを
描くこの発想はユニークである。
ここでは主体と客体の転換が起きている。
我々は主体からみた世界をすべてだと
つい考えてしまいがちで、それは確かにそうだが、
客体からみた全く別な世界ももうひとつの世界である。
おいしそうだと目の前に出される料理を見て、
喜んでいる人々の姿は、食べられる側からみれば、
歯をカチカチさせながら、
獲物を食べる機会をねらっている獰猛な動物そのものだ。
ああ、活魚の気持ちはまさしくこの境地かもしれない。

「わしは僧院長さまだぞ(Ego sum abbas)」は、
サイコロ賭博にうつつを抜かす聖職者の姿を描く。
当時、サイコロ賭博は聖職者や貴族の中に蔓延していた。
「カルミナ・ブラーナ」では「賭博師のミサ曲」という詩がある。
そのサイコロの魔力に中世の人々はとりつかれていたのである。

「居酒屋にいるときは(In taberna quando sumus)」では、
居酒屋に集まる人々の様子が描かれる。
「カルミナ・ブラーナ」全曲の中で、
一つのピークを創り出している。
もちろんこの居酒屋がサイコロ賭博の場ともなっている。
その結果、金銭を失い、着物を剥がれる者もいるのだ。
交わされる乾杯の音頭は際限なく続く。
何かの名目があればそのために乾杯ということだ。
この居酒屋には色々な人々が集まる。
誰だろうが掟も構わずに飲むというのだから
ハチャメチャな世界である。
そんな世界は音符を解読し、中世楽器で再現した原曲の
「カルミナ・ブラーナ」でも聴くことができる。
ベティーナ・ホフマン指揮、モード・アンティコの演奏する
「中世世俗歌曲・舞曲集」の中のCD1とCD2が、
「カルミナ・ブラーナ」であるがそのCD1の5曲目、
「In taberna quando sumus」がこの原曲である。
こちらの方がオルフの曲よりもハチャメチャな世界だ。
もちろん、演奏自体がやりすぎかと思うぐらいすごい。
コメント
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