もうひとつ引き続き、
吉田秀和著 『現代の演奏』新潮社より
文章をご紹介させてください。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
演奏家にとっては、
ベートーヴェンなりドビュッシーなりは
過去の音楽ではないのだ。
それが書かれて、百年以上たっているか、
五十年にはならないとかいう事実は、別に、
その目の前におかれた作品は、
今この瞬間の演奏家にとって、
ある現存であり、
それに則して、歌を、音楽を始める契機になる。
演奏家の立場というものは、
古いものも、すべて、現在の問題として扱う立場である。
古典の中に今日の関心をみる、いや
古典を今日の関心として読む人の立場のようなものである。
~~中略~~
私たち、聴衆にとってこそ、
あるいはベートーヴェンやシューベルトは
すぎ去った音楽であるのかもしれないが、
演奏家は、それをあくまで、
今この瞬間の音楽として、
私たちに提出してくる。
それは古くて、しかも新しい音楽である。
音楽は、
こういう演奏家という生産労働に従事する中間物のあるおかげで、
すぎさったもの、すぎさるもののすべてが、
すぎさりっぱなしになるわけではなく、
過去と現在はわかちようのないほど結ばれているものだという意味で、
私たち束の間の生命しかないものに、
《永遠》を体験さす芸術となっているのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
過去のヨーロッパに書かれた数多くのクラシック音楽の楽曲たち、
それを「今・現在の出来事」として捉える面白さに
気付かされるような素晴らしい文章だと思われました。
「演奏家」という言葉が少なからず出てくるのですが、
私は、これを、
いわゆるプロの演奏家と呼ばれる人達に限らず、
真面目に・楽しく・真剣に音楽に向き合う全ての人々を「演奏家」と呼び、
その全ての人々に当てはまる「楽曲の今を楽しむ」心が大事なもの、
と、思いたいです。
♪
吉田秀和著 『現代の演奏』新潮社より
文章をご紹介させてください。
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演奏家にとっては、
ベートーヴェンなりドビュッシーなりは
過去の音楽ではないのだ。
それが書かれて、百年以上たっているか、
五十年にはならないとかいう事実は、別に、
その目の前におかれた作品は、
今この瞬間の演奏家にとって、
ある現存であり、
それに則して、歌を、音楽を始める契機になる。
演奏家の立場というものは、
古いものも、すべて、現在の問題として扱う立場である。
古典の中に今日の関心をみる、いや
古典を今日の関心として読む人の立場のようなものである。
~~中略~~
私たち、聴衆にとってこそ、
あるいはベートーヴェンやシューベルトは
すぎ去った音楽であるのかもしれないが、
演奏家は、それをあくまで、
今この瞬間の音楽として、
私たちに提出してくる。
それは古くて、しかも新しい音楽である。
音楽は、
こういう演奏家という生産労働に従事する中間物のあるおかげで、
すぎさったもの、すぎさるもののすべてが、
すぎさりっぱなしになるわけではなく、
過去と現在はわかちようのないほど結ばれているものだという意味で、
私たち束の間の生命しかないものに、
《永遠》を体験さす芸術となっているのである。
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過去のヨーロッパに書かれた数多くのクラシック音楽の楽曲たち、
それを「今・現在の出来事」として捉える面白さに
気付かされるような素晴らしい文章だと思われました。
「演奏家」という言葉が少なからず出てくるのですが、
私は、これを、
いわゆるプロの演奏家と呼ばれる人達に限らず、
真面目に・楽しく・真剣に音楽に向き合う全ての人々を「演奏家」と呼び、
その全ての人々に当てはまる「楽曲の今を楽しむ」心が大事なもの、
と、思いたいです。
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