「同じように確実で、同じように単純で、しかも同じように原初的で普遍的な二つの力がある、つまり引力と反発力である。」カント著『一般的自然史と天体の理論』からのベートーヴェンによる抜粋。・・・作曲家ベートーヴェンはこれを協和音・不協和音で表現している!?
ベートーヴェン《悲愴ソナタ》のI楽章は、悪名高い!?左手のトレモロに弾き手は苦しめられます・・・今「なぜ・どこがキツいんだろう?」と冷静に考えてみました。「疲れる筋肉がどこか」を確定し、それがどこの動きに使われているものか逆算すると・・・なんと!それは使っていない指達!?
ベートーヴェン《悲愴》の左手のトレモロ。「15」もしくは「14」の運指で弾くものですが、もしかすると長くトレモロを弾いていて腕が疲れてくる原因は、その間に使われていない他の指「2、3、(4)」が不必要に硬直しているからかも!?この不必要な硬直がなければ、疲れない!?
左手、「51」指でトレモロを弾きながら、使っていない「234」指を、和音(基本型がよさそう)を弾くようなポジションに安定して置いておく。音が変わる度に、新たなポジションに使っていない指達も移動してゆく。すると・・・結構疲れない!? 悪名高いこの場所を皆で克服できる!?
《悲愴》左手のトレモロ・・・腕を上下に揺らして硬直をほぐそうとしたり、音量を落として(fで弾く必要はないはずです(結尾以外は))みたり、あるいは気合いで弾ききる!?なぞ、色々とやってきましたが・・・今回の考察・工夫は、今までと違う手応えを得られるかも。
まさか使っていない指達が硬直を起こしているだなんて!! 普通、使っている指に意識がいくもの。まさかまさか、それ以外のところに問題が秘んでいるかもしれないとは!? 目の前の事ばかりでなく、周囲も知っていないと、ということ!? (人生訓のようにも聞こえる(笑))
クラシック音楽の演奏者は、自分の思いを表現しよう、なぞと思ってはいけない・・・その楽曲の持つ思いを、演奏者である自分が表現する、そういう姿勢・役割として臨む芸術なのではないだろうか。(もちろん!楽曲の心と自分の心が一致できたらベスト!?)
自分の思いが先行して、これまでどれだけ演奏してきたことやら・・・(恥) とはいえ、思いが無い演奏をするよりかはよかったかしら。よりよいクラシック音楽の演奏を目指します!
ベートーヴェン最後のピアノソナタを弾くにあたって、これが「最後」ということ、ベートーヴェンの壮絶・熱情的なピアノ曲における最後の大発火!・・・なぞと思うと、気持ちばかりが先行して、楽曲の真の表現から遠ざかる危険を感じ始めました・・・気持ちは間違ってはいないでしょうが!しかし危
音楽からいっぱい感じる!これ、演奏者としては決して悪いことではないと思います。それどころか、豊かな感受性は不可欠!だとも思う。しかし!気持ちばかりが先行して、楽曲のあるべき姿が覆い隠されてしまうようならば、その演奏は成功から遠ざかってしまうのかも・・・難しい~!
ドイツ系の20世紀の名匠E.フィッシャーが、自身を「情熱的なタイプ」と言っていました。「だからこそ気を付けないと」とも!(笑) 人間、一生、そのタイプを全うすることもありえるのでしょうか?(ありえるのでしょう!)
練習しながら、悦に入ってしまう・・・ でもそれではいけない!よく練って勉強しないと。感動的な音楽が成功するためには「此岸の現実を必要とする」のだから!(E.F.の言葉より) すなわち、飛ぶ練習(・・・←現実?(苦笑))
「急ぐ人生でなし」・・・最近ふと口をついて自分から出てきた言葉・・・田舎暮らしが長過ぎたせいでしょうか!?(笑)クラシック音楽家として生きていて、思想がそうなってきているのか。あるいは、読んでいる書物(R.R.)の影響か・・・