フルトヴェングラー著『音と言葉』より抜粋
ここに決定的なことがあります。
今日の音楽の生命を脅やかす危機はどこに在るか、と言えば、
一辺倒の、科学的思惟だけが突出として、止めどもなくふくれ上がってきて、
その他のいっさいを犠牲にしてしまったということです。
私自身としては、それゆえ、この問題について私の歌を歌うことができます。
なぜなら、ドイツの音楽界における私の活動は、こういう科学的な変革が
まだ始まらなかった時代に開始せられたからです。
二十世紀の初頭の二、三十年間というものは、音楽においては
まだ前世紀の偉大な音楽的な出来事の影に掩われていました。
当時欧州の音楽界はまだ百花繚乱たる花園にも較ぶべきものでありました。
―― 種々の雑草がその間にはびこっていたのはもちろんです。
しかし真に美しい花の咲く花園だったのでした。
そこにはまたこの世紀を抜け出て次世代にまで咲きほこった新しい人たちもいました。
ドビュッシー、ラヴェル、レーガー、プフィッツナー、初期のストラヴィンスキー等々。
人はまだ「すべての道は、ローマへ通じる」と言うこともできたのでした。
ところが今日はまるで様子が変わってしまいました。
今「季節的」な作曲家と言われたいとねがう作曲家の歩む道は、いよいよ狭く、
いよいよ荒寥たるものにならなければならなくなりました。
いずれにしても、音楽の生命をゆするこの変革は、ただ
作曲家たちの意図や努力の上にだけ限定されて働きかけるものだ、などと考えてはなりません。
実際に音楽を演奏し、指揮しつつある音楽家らも、
同様にこの変革を免れるわけにはゆきません。
以前は指揮者や、ピアニストなどの努力は、ただ
徹頭徹尾偉大な作品をあらゆる豊かな生命をもって再現することに向けられればよかったのです。
なぜなら、人は情熱をもって、そういう偉大な作品を信じきっていたからです。
それはまだ「英雄崇拝」の時代だったのです。
が、今日の科学者たちは、そんなものはもう征服しおえたものとして、軽蔑しきっています。
あのことは、解釈家にとっては、たとえばベートーヴェンの作品を、
要求されるかぎりのあらゆる法則性と透明さと、温かい情熱、純情と偉大さをもって
再現することが課題だったのです。
今日の凡庸な演奏を聴いてみると、人は無意識のうちにこんなことを自問せずにはいられません。
今日の世界にとっては、これらの作品は突然もうどうでもよい興ざめたものになってしまったのだろうか。
いや、しかし、作品が変わったわけではありますまい。
また人間が、―― 聴衆という大衆が、―― 変わってきたわけでもありますまい!
では、それは何か、ということです。
今日の思考法、―― これはもう多少にかかわらず、今日の誰一人
免れるわけにはゆかないのですが、―― それが、これほどの影響を与えることが、はたしてできるのでしょうか?
私はそれを次のように性格づけたいと思います。
以前はベートーヴェンは、―― 偉大な芸術家であり、聖者であり、
私たち自身も神性あるものに属していることを内省させてくれる恩寵を盛る容器でした。
―― ベートーヴェンの代りに他の作曲家の名前を置いて考えてみても同じことです。――
彼は、言葉の持つ意味の範囲を正しく理解するかぎりにおいて、
宗教的と言ってもよい現実の一片だったのです。
彼はワグナーにとっても、ブラームスにとっても、マーラーにとってもそういう神的現実でした。
ところが今日となると、ベートーヴェンはもうそれほど深い意味において存在していないように思われます。
私はここで間違ったことを申し立てるわけではありません。
たとえば今日の世界はベートーヴェンの作品をなんの抵抗も感じることなく素直に感心して受け取ります。
以前にはそういうことはとても考えられることではありませんでした。
今日はベートーヴェンはまず何よりも、第一に「ヴィーンの古典作曲家」であり、歴史上の人間であり、
当時においてはもちろん大きな意味を持ったにちがいないが、我々には直接にもうなんのつながりもないものだ、と考えます。
もっともベートーヴェンの音楽を歴史的に理解しなければならぬ、ぐらいのことは
以前私たしも同じように考えてはいました。しかし
これがベートーヴェンの本質である、いや、それが我々に意味するベートーヴェンのすべてである、などということは、
そのころの私たちは夢にも思わないことでした。
こういう次第になってきた根本の理由は、もっと深い所にあるかもしれません。
今日の我々がはっきり意識するようになったのは、
現実を認識するために、いかに全体の展望が重大であるか、ということです。
我々はすべて事物をしだいに高所から、鳥瞰しうる立場から眺めようと努力するようになりました。
私たちはもう個々の芸術作品を「体験」しようとはしません。そして
言わばそれに我々の身を任せきってしまおうなどとはしなくなりました。むしろ
ただそれをその相関関係において理解し、それをただ「知識」とし、
それによって、支配しようとします。それはつまり、科学の用いる方法なのです。
さて、我々芸術家にとって、ここに問題が起こります。
こういうことを押しつめてゆくと、いったいどういう結末になるか、という問題です。
音楽の生命は一つの全体をなすものであって、決してただ
今日我々はどんなものを作曲するか、ということによって成り立っているのではありません。
問題は我々が過去の音楽をいかに見るか、いかに経験するか、
そして、いかに実際演奏するかということにあります。
至る所にその結果は認められると思います。
はっきりと意識されてはいなくても、我々の演奏は根底から変わってきました。
ベートーヴェンの作品の表現について、先にも言いました。
今日の音楽界はもうそれほど個々の作品に徹することも、その内容に沈潜することも要求しません。
むしろ今日の抽象や理論に走ろうとする思考法に対応するような
一般的な或る種の方向の線に従って作品を再現しさえすればよいのです。
もし作品が「古典」のものであった場合、
特に人はそれを「様式にふさわしく」演奏しなければならぬ、と言います。それは
いろいろな大事な問題を取りあげる方法ではあります。しかし、
ただ一つだけそれは取り逃がすことになります。つまり、
現代の人間として、作品と直接に対決する、という問題です。
なお「様式にふさわしく」という言葉の中には、特に、
「その作品の発生した時代の様式に忠実に」という意味が含まれています。
ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンという人間をつくっていたのは何か、ということはまずどうでもよろしい。むしろ、
「ヴィーンの古典作曲家」ベートーヴェンがその時代に何を意味したか、を演奏に示せばよいと言う。
(ところが、ベートーヴェンという人間の中にこそ、
あの十九世紀の「所産」であり、今日の我々にはあまりに「疑惑的」なものに思われる、
あの主観的・ロマン主義的な態度が現われています)
以前にはベートーヴェンの作品の中で偉大な問題だと思われた多くの疑問は、
―― このきびしい建築的な音楽は無数の問題を提供しています、―― 今日ではもう、
言わば、ひとりでに解決されてしまったかのような観を呈しいます。
そんな問題はもう消滅してしまったのです。というのはベートーヴェンの作品は
今日ではもう解決しなければならぬ問題ではなくなったらしい、という単純な理由からです。
ベートーヴェンがどう演奏されようと、それはもう我々の生活にとって重大でも何でもなくなったからです。
リヒャルト・ワグナーはベートーヴェンの話となると、
まるで陶酔したようになり、有頂天になったことは、人も知っています。
今日いわゆる科学という派閥をくぐってきた人々は、そんなことを聞くと、信じられぬような驚きに打たれるでしょう。
ベートーヴェンよりも、むしろそういうワグナーの人間に驚くのです。大体、
或る芸術作品に対して「陶酔」する などというのが、「時流に外れた」ものなのです。
それもまた同様にもう克服された十九世紀のロマン主義に属するものなのでありましょう。
ここではっきり言っておきたいのです。
それはまず科学的な世界の考察と、芸術的なそれとは
根底から相違したものだということが確証されねばならぬことです。
この二つの考察法はただ或る程度まで互いに併存し、影響しあうことができます。しかし
このいずれの直観の様式も単独に世界を代表し、それを支配するという主権を持っているわけではありません。
この二つの考察法のいずれも主位を持とうなどという要求を持ち出すべきではない
ことを信ずべきです。そういうことはできないはずです。もし人がそれをもっと深く考えてみるなら、
この二つの考察法の構造の中にその理由があるのです。なぜなら、
もう先にも言ったように、その一つは生きることを欲し、他の一つは支配せんとするものだからです。
生命を探求し、生命以外の何ものをも探求しようとしない芸術家は、
科学者とは全然違った意味において、自分を、また彼の作品を、
流れに任せ、人に身を任せるところがあります。
しかも彼は与えた芸術の感銘やその展開を問題にしなければなりません。結局
外部の世界の反響というものを相手にしているわけです。これこそ、
ことに今日、科学者が食ってかかる要点となっています。
しかも彼は科学者の意味において食ってかかるのであって、芸術家の意味においてではありません。今日は芸術のほうが
しばしばまるで、いかに演奏したらよいか、いかに作曲すべきか、全然方向というものを持っていないかのような観があります。
「科学」の人間は、聴衆ではないが、一般の意見を支配する力を持っており、
したがって、それを芸術家に向かって押しつけるだけの充分な強い力を持っているのです。
先にベートーヴェンの場合にも言ったのですが、
音楽の演奏に対する要求がまるで変わってきたのです。
我々の演奏が自由と情緒とを失ってきたのはひどいものだった。
そしてもう実に微かな細部に至るまで意識的になり、何かを決められた形象とか、方法などに支配されています。
そういうものが、個々の作品の上に押しつけられるのですが、それは作品とはおよそなんのつながりもないものが多いのです。
過去の偉大な作品は高度に直観の上に立っています。
演奏する場合、そういう直観を正しく描き出してゆく、ということはしないで、
あらゆる手段をかたむけて、それを追放し、迫害しようとします。
作曲された作品の内部において、「直観」とは何であり、何でありうるか、
今日 人はもうほとんど
ここに決定的なことがあります。
今日の音楽の生命を脅やかす危機はどこに在るか、と言えば、
一辺倒の、科学的思惟だけが突出として、止めどもなくふくれ上がってきて、
その他のいっさいを犠牲にしてしまったということです。
私自身としては、それゆえ、この問題について私の歌を歌うことができます。
なぜなら、ドイツの音楽界における私の活動は、こういう科学的な変革が
まだ始まらなかった時代に開始せられたからです。
二十世紀の初頭の二、三十年間というものは、音楽においては
まだ前世紀の偉大な音楽的な出来事の影に掩われていました。
当時欧州の音楽界はまだ百花繚乱たる花園にも較ぶべきものでありました。
―― 種々の雑草がその間にはびこっていたのはもちろんです。
しかし真に美しい花の咲く花園だったのでした。
そこにはまたこの世紀を抜け出て次世代にまで咲きほこった新しい人たちもいました。
ドビュッシー、ラヴェル、レーガー、プフィッツナー、初期のストラヴィンスキー等々。
人はまだ「すべての道は、ローマへ通じる」と言うこともできたのでした。
ところが今日はまるで様子が変わってしまいました。
今「季節的」な作曲家と言われたいとねがう作曲家の歩む道は、いよいよ狭く、
いよいよ荒寥たるものにならなければならなくなりました。
いずれにしても、音楽の生命をゆするこの変革は、ただ
作曲家たちの意図や努力の上にだけ限定されて働きかけるものだ、などと考えてはなりません。
実際に音楽を演奏し、指揮しつつある音楽家らも、
同様にこの変革を免れるわけにはゆきません。
以前は指揮者や、ピアニストなどの努力は、ただ
徹頭徹尾偉大な作品をあらゆる豊かな生命をもって再現することに向けられればよかったのです。
なぜなら、人は情熱をもって、そういう偉大な作品を信じきっていたからです。
それはまだ「英雄崇拝」の時代だったのです。
が、今日の科学者たちは、そんなものはもう征服しおえたものとして、軽蔑しきっています。
あのことは、解釈家にとっては、たとえばベートーヴェンの作品を、
要求されるかぎりのあらゆる法則性と透明さと、温かい情熱、純情と偉大さをもって
再現することが課題だったのです。
今日の凡庸な演奏を聴いてみると、人は無意識のうちにこんなことを自問せずにはいられません。
今日の世界にとっては、これらの作品は突然もうどうでもよい興ざめたものになってしまったのだろうか。
いや、しかし、作品が変わったわけではありますまい。
また人間が、―― 聴衆という大衆が、―― 変わってきたわけでもありますまい!
では、それは何か、ということです。
今日の思考法、―― これはもう多少にかかわらず、今日の誰一人
免れるわけにはゆかないのですが、―― それが、これほどの影響を与えることが、はたしてできるのでしょうか?
私はそれを次のように性格づけたいと思います。
以前はベートーヴェンは、―― 偉大な芸術家であり、聖者であり、
私たち自身も神性あるものに属していることを内省させてくれる恩寵を盛る容器でした。
―― ベートーヴェンの代りに他の作曲家の名前を置いて考えてみても同じことです。――
彼は、言葉の持つ意味の範囲を正しく理解するかぎりにおいて、
宗教的と言ってもよい現実の一片だったのです。
彼はワグナーにとっても、ブラームスにとっても、マーラーにとってもそういう神的現実でした。
ところが今日となると、ベートーヴェンはもうそれほど深い意味において存在していないように思われます。
私はここで間違ったことを申し立てるわけではありません。
たとえば今日の世界はベートーヴェンの作品をなんの抵抗も感じることなく素直に感心して受け取ります。
以前にはそういうことはとても考えられることではありませんでした。
今日はベートーヴェンはまず何よりも、第一に「ヴィーンの古典作曲家」であり、歴史上の人間であり、
当時においてはもちろん大きな意味を持ったにちがいないが、我々には直接にもうなんのつながりもないものだ、と考えます。
もっともベートーヴェンの音楽を歴史的に理解しなければならぬ、ぐらいのことは
以前私たしも同じように考えてはいました。しかし
これがベートーヴェンの本質である、いや、それが我々に意味するベートーヴェンのすべてである、などということは、
そのころの私たちは夢にも思わないことでした。
こういう次第になってきた根本の理由は、もっと深い所にあるかもしれません。
今日の我々がはっきり意識するようになったのは、
現実を認識するために、いかに全体の展望が重大であるか、ということです。
我々はすべて事物をしだいに高所から、鳥瞰しうる立場から眺めようと努力するようになりました。
私たちはもう個々の芸術作品を「体験」しようとはしません。そして
言わばそれに我々の身を任せきってしまおうなどとはしなくなりました。むしろ
ただそれをその相関関係において理解し、それをただ「知識」とし、
それによって、支配しようとします。それはつまり、科学の用いる方法なのです。
さて、我々芸術家にとって、ここに問題が起こります。
こういうことを押しつめてゆくと、いったいどういう結末になるか、という問題です。
音楽の生命は一つの全体をなすものであって、決してただ
今日我々はどんなものを作曲するか、ということによって成り立っているのではありません。
問題は我々が過去の音楽をいかに見るか、いかに経験するか、
そして、いかに実際演奏するかということにあります。
至る所にその結果は認められると思います。
はっきりと意識されてはいなくても、我々の演奏は根底から変わってきました。
ベートーヴェンの作品の表現について、先にも言いました。
今日の音楽界はもうそれほど個々の作品に徹することも、その内容に沈潜することも要求しません。
むしろ今日の抽象や理論に走ろうとする思考法に対応するような
一般的な或る種の方向の線に従って作品を再現しさえすればよいのです。
もし作品が「古典」のものであった場合、
特に人はそれを「様式にふさわしく」演奏しなければならぬ、と言います。それは
いろいろな大事な問題を取りあげる方法ではあります。しかし、
ただ一つだけそれは取り逃がすことになります。つまり、
現代の人間として、作品と直接に対決する、という問題です。
なお「様式にふさわしく」という言葉の中には、特に、
「その作品の発生した時代の様式に忠実に」という意味が含まれています。
ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンという人間をつくっていたのは何か、ということはまずどうでもよろしい。むしろ、
「ヴィーンの古典作曲家」ベートーヴェンがその時代に何を意味したか、を演奏に示せばよいと言う。
(ところが、ベートーヴェンという人間の中にこそ、
あの十九世紀の「所産」であり、今日の我々にはあまりに「疑惑的」なものに思われる、
あの主観的・ロマン主義的な態度が現われています)
以前にはベートーヴェンの作品の中で偉大な問題だと思われた多くの疑問は、
―― このきびしい建築的な音楽は無数の問題を提供しています、―― 今日ではもう、
言わば、ひとりでに解決されてしまったかのような観を呈しいます。
そんな問題はもう消滅してしまったのです。というのはベートーヴェンの作品は
今日ではもう解決しなければならぬ問題ではなくなったらしい、という単純な理由からです。
ベートーヴェンがどう演奏されようと、それはもう我々の生活にとって重大でも何でもなくなったからです。
リヒャルト・ワグナーはベートーヴェンの話となると、
まるで陶酔したようになり、有頂天になったことは、人も知っています。
今日いわゆる科学という派閥をくぐってきた人々は、そんなことを聞くと、信じられぬような驚きに打たれるでしょう。
ベートーヴェンよりも、むしろそういうワグナーの人間に驚くのです。大体、
或る芸術作品に対して「陶酔」する などというのが、「時流に外れた」ものなのです。
それもまた同様にもう克服された十九世紀のロマン主義に属するものなのでありましょう。
ここではっきり言っておきたいのです。
それはまず科学的な世界の考察と、芸術的なそれとは
根底から相違したものだということが確証されねばならぬことです。
この二つの考察法はただ或る程度まで互いに併存し、影響しあうことができます。しかし
このいずれの直観の様式も単独に世界を代表し、それを支配するという主権を持っているわけではありません。
この二つの考察法のいずれも主位を持とうなどという要求を持ち出すべきではない
ことを信ずべきです。そういうことはできないはずです。もし人がそれをもっと深く考えてみるなら、
この二つの考察法の構造の中にその理由があるのです。なぜなら、
もう先にも言ったように、その一つは生きることを欲し、他の一つは支配せんとするものだからです。
生命を探求し、生命以外の何ものをも探求しようとしない芸術家は、
科学者とは全然違った意味において、自分を、また彼の作品を、
流れに任せ、人に身を任せるところがあります。
しかも彼は与えた芸術の感銘やその展開を問題にしなければなりません。結局
外部の世界の反響というものを相手にしているわけです。これこそ、
ことに今日、科学者が食ってかかる要点となっています。
しかも彼は科学者の意味において食ってかかるのであって、芸術家の意味においてではありません。今日は芸術のほうが
しばしばまるで、いかに演奏したらよいか、いかに作曲すべきか、全然方向というものを持っていないかのような観があります。
「科学」の人間は、聴衆ではないが、一般の意見を支配する力を持っており、
したがって、それを芸術家に向かって押しつけるだけの充分な強い力を持っているのです。
先にベートーヴェンの場合にも言ったのですが、
音楽の演奏に対する要求がまるで変わってきたのです。
我々の演奏が自由と情緒とを失ってきたのはひどいものだった。
そしてもう実に微かな細部に至るまで意識的になり、何かを決められた形象とか、方法などに支配されています。
そういうものが、個々の作品の上に押しつけられるのですが、それは作品とはおよそなんのつながりもないものが多いのです。
過去の偉大な作品は高度に直観の上に立っています。
演奏する場合、そういう直観を正しく描き出してゆく、ということはしないで、
あらゆる手段をかたむけて、それを追放し、迫害しようとします。
作曲された作品の内部において、「直観」とは何であり、何でありうるか、
今日 人はもうほとんど