フランス人は、まずは(←でも大事な一歩)個人的レヴェルにおいて、皆が「美学」について某かある、そんな人達なのかも!?と、昨日フランス系のサロンで髪を切ってもらって考えました。人それぞれだけど、感性は非常に豊かなのかもしれない。勉強になりました!
・・・昨晩は、自分の音楽における「自信」なぞといふものをおバカにも公言してしまいましたが・・・そうさせたキッカケは、5月の演奏会で初めてチェンバロを弾くこととなり、その練習のため、チェンバロが自宅に来て、その勉強をしていたがため!?と思われます
チェンバロは、撥弦鍵盤楽器とでも言ってよいのでしょうか?その特性は、人によって音色の差はほとんどない、皆同じとなる平等性を持っていると思われます。オルガンも、きっと同じよう。それらの楽器において演奏で勝負する部分は限られている、ここにクラシック音楽の奥義が!
我々の、生まれながらに!?慣れ親しんでいるピアノという楽器は、チェンバロに比べようのない可能性を持っています。本当に、誰が鍵盤を弾いても、違う音がします。体格、指の形・角度、力の入れ具合、etc...無限の個性を反映する、ピアノとはそんな鍵盤楽器なのかもとあらためて関心しています
チェンバロには、それがほとんど無い!打鍵においては、個性がほとんど反映されないようです。(極小の差はありそうですが・・・) その代わり、個性に左右されない、音楽そのものに邪魔!?が少なく真面目に向かい合える!?という醍醐味をチェンバロから味わっている今日この頃です。
300年も前に書かれた楽譜にそって、その当時に使われていた楽譜で演奏する・・・300年の時を越え、音楽が再生される・・・そこで現れる重要事項は、和音としての「協和音か不協和音か」という物理的事実・・・昔の音楽家は、これを一大事として感受していた!?ようです
可能性が広すぎて!?自由でありすぎる!?今日の我々には、なかなか手にし難い宝物を、昔の人達は当たり前に味わっていたのかもしれない・・・時代の差を感じます。しかし!同じ人間であることも事実。21世紀を生きる我々にも、彼らのたのしむ音楽性に近付くことは不可能ではない!と思っています
音楽における事実に耳を傾ける・・・その端的な例が「協和音か不協和音か」。これは、楽器を問わず、時代を問わず!宇宙が誕生したその日から!?変わらぬ事実ではないでしょうか。宇宙的事実、音楽は、これに関係する。
ヨーロッパ中世における音楽理論ボエティウスの言う「ムシカ・ムンダーナ」を、このように考えてゆくと、戯言とは思えなくなってくる。単なる理論ではない、生きた真実として、宇宙の音楽というものを・・・実感・・・する。音楽家として生きる手応え!これ自信の根拠となるのです
チェンバロが、教えてくれました。それを、ピアノに還元したい。近代の素晴らしい楽器ピアノと、古楽器のもたらす音楽性、これを合わせてジンテーゼとしたい!我が音楽家としての人生を、そんな意味あるものと出来るならば、この命、少しは人類に貢献できる!?
人は、無限!にして有限である・・・有限にして無限である・・・そう思います。そう思いませんか!?