音楽家ピアニスト瀬川玄「ひたすら音楽」

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■ドビュッシー自身が語る ~ バッハのアラベスク・音楽の真実

2012年03月13日 | ドビュッシー Claude Debussy
反好事家八分音符氏(ムッシュー・クロッシュ・アンティディレッタント)著
(ドビュッシーのペンネーム)平島正郎 訳
『ドビュッシー音楽論集』岩波文庫より抜粋


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 しかしながらこの協奏曲は、大バッハの楽譜帳にかつて
書きこまれたたくさんのあいだでの、感嘆すべきひとつである。

そこには、あの〈音楽のアラベスク〉、というよりむしろ
芸術のあらゆる様態(モード)の根底である〈装飾〉のあの原理が、
ほとんど無疵なままで見出せる。(〈装飾〉ということばは、
音楽の文法がそれに与えている意味とは、この際なにも関係がない。)

最初期の人たちや、パレストリーナ、ヴィクトリア、
オルランド・ディ・ラッソなど・・・・・・は、
この聖なる〈アラベスク〉を用いた。
彼らはその原理をグレゴリウス聖歌のなかにみつけだし、
その儚い組合せ模様を、がっしりした対位法で支えた。

バッハは、ふたたびアラベスクを手にしながら、
それをいっそうしなやかな、いっそう流動的なものとした。
そしてそれは、この巨匠が美にまもらせていた厳格な規律にもかかわらず、
われわれの時代をもなお驚かす
常に新たにされるあの自由な幻想とともに、動くことができた。


 バッハの音楽においてひとを感動させるのは、
旋律の性格ではない。その曲線である。
さらにしばしばまた、多数の線の平行した動きだ。
それらの線の出会いが、偶然であるにせよ必然の一致にせよ、感動を誘う。
こうした装飾的な構想に、音楽は、
公衆が感銘を受け心象をいだくようにはたらきかける
機械のごとき確実さをもたらす。


 なにか自然でないもの人工的なものがあるかのように、
考えないでいただきた。どこまでもその逆で、
楽劇(ドラム・リリック)がたててみせるいじましい人間的な叫びより、
もっと〈真実〉なのである。

とりわけ音楽はそこでそのあらゆる高貴さを保ち、
〈音楽が大好きだ〉と言われる人たちに特有な感傷癖が
あれこれもちだす要求にこたえるための妥協や譲歩は、けっしてしない。

もっと誇りをもって、彼らから、
たとえ熱愛でないまでも尊敬をかちとる。


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