私が佐村河内氏に期待していたのは、21世紀の今更において「調性音楽」が人々の心を掴んでいるという事実を立証してくれていると思ったから。作者が聾であるというバックグラウンドも大いに助力となっていますが、しかし現実に多くの人が音楽を聴き、感動した・・・この事実は嘘ではない?
それにしても!音符も書けない人物が作曲家面をして、いけしゃあしゃあと音楽について語っていた、あの姿を思うと実に悔しい!「海外に比べ日本は」とか「文化レヴェルの向上」だの「音が降りてくる」・・・多少薄っぺらい言葉かな?とも思いましたが大目に見ていたら・・・これでした
「私は絶対音感で作曲している」なぞとも言っていましたが、考えてみたら、本当に音楽をやっている人間は「自分の絶対音感」を誇示するなんていうことは・・・ほとんど無いかも?「絶対音感」という言葉すら滅多に使うことはないと思いました。その時点で嘘に気付くべきだった(悲)
本当に悔しいのは、今度のような事件を期に、真剣に音楽に取り組んでいる人々の行いにまで、疑いの目が向けられてしまうかもしれないという大きな心配が生まれてしまったこと・・・音楽に対する汚れてしまった信頼を、我々は誠意をもって長い時間をかけ取り戻すよう心掛けるべきでしょうか
大きな魅力を持つ「音楽・作品そのもの」と、それに関わる人間(作者、演奏者、プロデューサー?)の魅力、それらの相乗効果で、音楽の力は二乗で大きくなってゆく!? どちらが欠けていてもいけない!?「音楽のみ」でなく「人物のみ」でなく!?
佐村河内問題では、この両者が見事にそろっていたということでしょうか。新垣氏による巧みに書かれた「楽曲」に、佐村河内氏が聾唖者で、苦難の中で作曲しているという「人間」のストーリー・・・本当に多くの人がこれに感動していたのです
それにしても・・・「ヒロシマ(←カタカナ表記で、原爆という世界的悲劇の意味が強調されましょう)」、そして最近の「東日本大震災」までもがこの詐欺に利用されたとは・・・これ許しがたい!くだらない自己顕示欲のために人々の心を食い物にする卑劣な行いは非道い!
考えてみると、《交響曲ヒロシマ》とやらは、新垣氏の本名で、あるいは佐村河内氏との共作として発売しても、このような反響はきっと無かったでしょう・・・あくまでも「人物」と「楽曲」の魅力の両方がそろって音楽に大きな力をもたらすことが浮き彫りになってきましょうか?
佐村河内氏の魅力なぞというものは・・・とんだクワセモノだったわけですが(怒)
音楽家は「音楽ばっかり」やっていてもダメ、「人間的魅力」に頼ってばかりいてもダメ。この「当たり前」とも思われることに今更ながら気付かされたとしたら、今回の詰まらない事件から少しは教訓が得られたということか・・・
ゴーストライター新垣氏には、悪意はなかったでしょう。ただ不器用なまでに音楽に向き合い仕事している人物のように、私には見えました。直接ご本人は知りませんが、本人を知る多くの人々が彼を擁護しているようです。決して悪い人ではない!と。
「表現する」のではなく「表現される」
演奏者は、自らの身体から音楽を「出す」のではなく、音楽が「出てくる」ような感じが望ましいのでは!? と最近では思っています。
「押し付けがましくない音楽」になれる長所もここにある!?
演奏者の身体から音楽が無理なく出てくるような状態、これぞ理想的な自然体の音楽!?