ブラームス《ドイツ・レクイエム》第1楽章
そもそもこの《ドイツ・レクイエム》という音楽における
「コーラス」の役割は、非常に大きなものがあると言えましょう。
全曲を通じて、コーラスが
『聖書』からブラームス自身によって選び抜かれた言葉を
歌い続けます。
「テキスト・言葉」が大きな役割を担っている、
それを「音楽」が、何倍にも強い効果に増幅させる、
「音楽」と「言葉」の両者の相互作用で、
この楽曲は、すさまじい力を・影響力・心への浸透力を
持っていると思われます。
そんな音楽の幕開け=第1楽章は
「Selig sind」
という言葉で始まります。
「Selig sindさいわいである」
「selig」を辞書でひいてみると、
「至福の、祝福された、故人となった、きわめて幸福な、大喜びの」
なぞとありました。
指揮者のシュナイト先生が練習中におっしゃっていました、
「この曲(ドイツ・レクイエム)は、
“selig”という言葉を使った最も美しい音楽だ」と。
《ドイツ・レクイエム》は、
冒頭にあるこの「selig」に始まり、
終曲の第7楽章にて、ふたたび「selig, selig, selig」と
静かに連呼されて幕を閉じるのです。
「selig」に挟まれた壮大なスペクタクル、これが
《ドイツ・レクイエム》であるといっても
過言ではないかもしれません。
冒頭の言葉を書き出してみますと
Selig sind, die da Leid tragen,
denn sie sollen getroestet werden.
(さいわいである、苦悩を背負う者は、
なぜなら彼らは慰められるべきであるから)
ここで大事な言葉は、
「selig sind さいわいである」
「Leid tragen 苦悩を背負う」
「getroestet werden 慰められる」
という三点にありましょうか。
苦悩を背負う者とは誰のことなのでしょうか?
我々のことです。今を生きる、そしてかつても生きていた、
さらにはこれから先を生きる未来においても
あらゆる「人間」は、多かれ少なかれ、皆同じく
「Leid苦悩」を背負っているのではないでしょうか?
ブラームスは、ここに一石を投じました、美しい音楽を添えたのです。
それが、この《ドイツ・レクイエム》の冒頭を飾る1楽章なのです。
苦悩があるからこそ、それは慰められる
今苦しんでいる人は、きっといつか慰められる
だからこそ、さいわいである
初演の際、観客はこの美しい音楽に皆涙したとも伝わっているそうです。
しかしこの美しい音楽に心慰められるのは、当時のドイツの人々
だけではきっとないと思います。国境を越えて、時空を越えて、
《ドイツ・レクイエム》はあらゆる人間達を
「慰め」てくれる大いなる力をきっと有しています。
1楽章の終わりは、「getroestet werden慰められる」
という言葉が静かに連呼されて終わります。
ソプラノ(女性高音)、アルト(女性低音)、
テノール(男性高音)、バス(男性低音)、
すなわち、
老若男女あらゆる人間達を代表するかのような四声のコーラスが
「慰められる」ことを望み、望み・・・
しかし、それはまるで幻想のごとく!?
静かに消えてゆくのです。
この希望は、果たして実現されるのでしょうか。
続く2楽章で、その行く末が暗示されます。
★P.S.
どうかこの《ドイツ・レクイエム》を存分に愉しまれたい方は、
この冒頭の楽章の音楽を覚えておかれることがお勧です。なぜなら、
この1楽章の終結部Coda部分は、ほとんどそっくりそのまま
姿をふたたび現すのです。この感動はひとしお、
長大な時間を経てたどり着く《ドイツ・レクイエム》の最後に
はっ・・・と、この冒頭楽章の音が再び流れる瞬間の感動は
是非とも受け止めたいものです、演奏する者も、聴く者も。
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