ブルックナーの交響曲を聴き終わると、我々は完璧無欠なものを体験したという想いを抱く― 全てのものの中を歩みつくしたという感覚
— チェリビダッケbot (@Celibidachebot) 2017年8月3日 - 16:19
フランス・イタリー派のやり方は、歌をとおして音楽に近づく。フランス人やイタリー人にとっては、いずれかの楽器をよくマスターするということは、その楽器で歌うということなのだから。
— Kodály Zoltán (@Kodaly_bot) 2017年8月3日 - 15:42
1878年以後、たしかにパリ・コンセルバトワールの例は、どこの国でも手本とされるようになった。われわれのところを除いて。
— Kodály Zoltán (@Kodaly_bot) 2017年8月3日 - 19:42
イタリーが多くの傑出した音楽家を生んだことには、教育にもおおいにあずかるところがあった。
— Kodály Zoltán (@Kodaly_bot) 2017年8月3日 - 17:42
アンパンマンのテーマソングは
— アンパンマンbot (@asopasomaso0) 2017年8月3日 - 17:09
「なんのために生まれて、なんのために生きるのか」
というのですが、実はぼくはずいぶん長い間、自分がなんのために生まれたのかよくわからなくて、闇夜の迷路をさまよっていました。
作者/やなせたかし
立派に支配する者は、かつて服従したことがあるにちがいないし、従順に服従する者は、いつか支配するにふさわしいと思われるからである。(キケロ『法律について』第3巻5)
— キケロbot (@cicerobot_jp) 2017年8月3日 - 20:20
「私は神を信ずる。」これは美しい、称賛すべき言葉である。しかし神が何処にどのように顕現しようと、神を承認すること、これこそ真に現世の至福である。-箴言と省察-
— ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ (@J_W_Goethe_jp) 2017年8月3日 - 19:30
異質の個性を真に自己の内に喚起するこの能力―たんに表面的な模倣によって瞞着するのではない―は、まだ完全には知られていない。この能力が依拠するのは、きわめて不思議な浸透と精神的模倣である。芸術家は、自分が見るもの、自分がなりたいものの全てと化す。 『断章と研究』
— Novalis (@Novalis_bot) 2017年8月3日 - 20:34
音楽の定義などできない。それは思考の範囲を超えたところにある
— チェリビダッケbot (@Celibidachebot) 2017年8月3日 - 20:19