音符をみてはソルミゼーションでうたう。ソルミゼーションになったもの(たとえば、すでに文字譜になっているもの)は、アーベーツェーで、そして、いつも調を変えてうたうことができる。ただし、アーベーツェーと言うからには、必ずほんとうにそのピッチでうたわなければ、意味がない。
— Kodály Zoltán (@Kodaly_bot) 2017年8月2日 - 15:42
相対音感と、
— Gen Segawa 瀬川玄 (@pianistGS) 2017年8月2日 - 23:08
絶対音感の、
両方に通じている必要があるということ!?
人類は、ほんとうに音楽の価値を知るとき、より幸せに生きることができるであろうとは、わたしたちのゆるぎない確信である。
— Kodály Zoltán (@Kodaly_bot) 2017年8月2日 - 21:42
まず自分が話すことの意味を知れ、それから発言せよ。
— エピクテトスBOT (@bot_epic) 2017年8月2日 - 16:02
こうしてこそ、絶対音感をも育てることができる。そして、人を音楽の愛好者、理解者にするものも、能動的に音楽することを覗いて他にはない。聴くだけでは不十分である。
— Kodály Zoltán (@Kodaly_bot) 2017年8月2日 - 17:42
書かれたものをとおして、次にうたうことをとおして、音符を文字にし、また逆に、文字を音符にすることほどよい練習はない。
— Kodály Zoltán (@Kodaly_bot) 2017年8月2日 - 13:42
精神ほど自由なものはないが、同時に精神ほど強制しうるものもない。もっぱら精神のみが、なにかのために強制を受けることができるのだ。だから強制しうるものとは―そもそも強制できるかぎりで―精神なのである。 『断章と研究』
— Novalis (@Novalis_bot) 2017年8月2日 - 19:04
リムスキー=コルサコフの生徒になって、いつもピアノを用いて作曲してよいのかとたずねたさい、師が私に与えた意見を引用しておきたい。『或る人たちはピアノを用いて作曲し、他の人たちはピアノなしで作曲する。そうだね、君はピアノを使って作曲しなさい。』と彼は答えた。
— ストラヴィンスキー bot (@strawinsky_bot) 2017年8月2日 - 21:16
チェリビダッケのロ短調ミサ曲の冒頭のキリエ、透き通り過ぎてて聴いてると自分も骨の髄まで浄化されて消滅してしまうんじゃないかってレベル。もう美しさの暴力。聖職者系の最強攻撃魔法って感じ。
— はなだ@眠いbot (@shishioriori) 2017年8月1日 - 07:42
語る言葉を適切に選択する感覚(elegantia)は文学全般の知識によって磨かれるが、(とくに)弁論家と詩人の著作を読むことで研ぎすまされるようになる。(クラッスス『弁論家について』第3巻39)
— キケロbot (@cicerobot_jp) 2017年8月2日 - 20:21
類比をあまり強く推し進めれば、全てが同一のものに帰着する。類比を避ければ、無数のものに分散する。どちらの場合にも考察は停滞する。一方では考察が活発すぎるために、他方ではそれが殺されてしまうために。-箴言と省察-
— ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ (@J_W_Goethe_jp) 2017年8月2日 - 21:30
中道が良い、ということ!?
— Gen Segawa 瀬川玄 (@pianistGS) 2017年8月2日 - 23:14
本番はどんなことが起こっても音楽であり続ける。これが何よりも大切なことだと思います。
— Yoshihiro KONDO (@yoshihirokondo) 2017年8月2日 - 22:48
理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにある。それを知るところまで行かなければ、理性は弱いものでしかない。"パスカル「パンセ」"
— パスカルbot (@pascal___bot) 2017年8月2日 - 20:20
理性的な世界は一つの偉大な不滅の個体とみなすべきである。それは、とどめがたく必然を生ぜしめ、そのことによって、更に偶然さえも支配する個体である。-箴言と省察-
— ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ (@J_W_Goethe_jp) 2017年8月2日 - 20:30
日常的なものや月並みなものにこれほど多くの力と緊張を要するのは、もしかしたら、本来の人間にとっては、みすぼらしい日常性ほど非日常的なもの―月並みでないもの―はないからではないか。 『花粉』
— Novalis (@Novalis_bot) 2017年8月2日 - 22:34
We are twice armed if we fight with faith. Plato
— Ancient Philosophy (@AncntPhilosophy) 2017年8月2日 - 21:44
戦争を起こす理由は不正のない平和な生活のためであらねばならない一方、いったん勝利が得られれば、戦争中に残忍でも野蛮でもなかった人々の命は守られねばならない。(『義務について』第1巻35)
— キケロbot (@cicerobot_jp) 2017年8月2日 - 17:21
・・・戦争をおこしてよい理由がある!?・・・
— Gen Segawa 瀬川玄 (@pianistGS) 2017年8月2日 - 23:22
不正は、正したいものですが・・・いやはや・・・
恐怖(本番前の緊張感!?)と、闘ってはいけない、ということ?
— Gen Segawa 瀬川玄 (@pianistGS) 2017年8月2日 - 23:24
恐怖に対峙するのではなく、
それを受け容れるような心構えでいると
恐れは、落ち着く・・・!?
自分の感情を遠く理念の世界にまで高めていくことが出来る人こそ、真の個性をもった存在だといえる。-自由の哲学-
— ルドルフ・シュタイナー (@R_Steiner_jp) 2017年8月2日 - 17:31
根源現象の直接の関知は私たちを一種の不安に陥れる。私たちは自己の不十分さを感ずるのだ。経験という永遠の戯れによって生気を与えられた場合にのみ、根源現象は私たちを喜ばせる。-箴言と省察-
— ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ (@J_W_Goethe_jp) 2017年8月2日 - 14:30
類比に従って考えることは非難さるべきではない。類比には、議論を打ち切らず、本来、最後的なものを求めないという長所がある。それに反して帰納法は、立てた目的にばかり目を注いでがむしゃらに突き進み、間違いも真実も一緒に引きずっていくから、危険である。-箴言と省察-
— ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ (@J_W_Goethe_jp) 2017年8月2日 - 15:30
Would you have ever learned or discovered anything, if you had not been willing to learn from others?
— Socrates (@socratesquots) 2017年8月2日 - 18:40
他者から学べ、ということ?
— Gen Segawa 瀬川玄 (@pianistGS) 2017年8月2日 - 23:27
あらゆる経験が把握され、総括され、整然と配列され、仕上げられる精神力に対して、誰もその高いいわば創造者的に独立した力を否認しないであろう。-客観と主観の仲介者としての実験-
— ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ (@J_W_Goethe_jp) 2017年8月2日 - 18:30