ややこしい(ゆえにいい練習になる!?)練習曲を初見しながら気付いたことを。「音のシステムを分かりながら弾こう」とするとなかなかスムーズに弾けないけど、「次々と現れる音符を目で追って弾く」と・・・ずっと速く弾けました!しかし速く弾けたとしても、虚無感が・・・
頭を使って、音楽を分かろうと努める姿勢は「亀的」? 余計なことは考えずに音符を追ってゆくのは「兎的」!?というふうな気がしました。兎的能力は、音楽の仕事を沢山するには必要でしょうが、亀的に考えて音楽するのは、芸術性を深める上で重要とも思われます。さぁ、どっち!?
時には兎となり、時には亀となる。兎とは何か、亀とは何か、知ってその姿勢を取ることは、その行為の最中の充実感をより高めることとなるでしょうか。今は私は「ややこしい練習曲」では、亀的に勉強したいと思います!(兎もいけると確認できたから心置きなく亀になれる!?)
クラシック音楽という高度に発展した芸術に相対しては、「考える」という姿勢なくして、その充実感を満喫することは「出来ない」と最近では思わざるを得ません。考えること少なく仕事をやっつけてゆくようなプロの演奏に物足りなさを感じるのは有り得ること・・・!?
もちろん!音楽しながら考えてばかりで、音楽を感じないようでは、これも魅力の欠如となってしまうでしょう・・・ 更に技術不足もいけないでしょう! どれも必要。
曲に慣れてきて、次の音は頭が覚えていて、しかし指使いが定まっていないので無理をして(苦しんで?)弾いているような状態になったら、それは譜読みの段階が終了している瞬間なのかも!? そうしたら、練習方法をその段階に合ったものにしないと・・・下手になる!?
次に弾く音(階名?)は分かっているけど、それを弾くのに適切な指使いが定まっていなかったり、またその音を、単なる「ドレミ」ではない、その音楽に見合った音量、表情、和声などが明確になっていない状態は、まだその音楽が手中に入っていないということでしょう
自分の奏でる音が、どういうものか、先んじて分かっていて(そして感じて!)演奏している状態を、目指したい