ベートーヴェン最後の《ソナタ32番op.111》II楽章“Arietta”と
ショパン《幻想ポロネーズop.61》のアイディアの相似について
先日に書きました。
では、
この記事の題名にもあるベートーヴェン最後から二番目のソナタ
《ソナタ31番op.110》の影響は、《幻想ポロネーズ》のどこに見られるのでしょう?
今の自分が思うに、両者の曲の終わり方に、
似たようなアイディアを望むことができるような気がするのです。
(もちろん、ショパンがベートーヴェンの音楽からアイディアなり
インスピレーションを受けたと考えるのが正しいでしょう)
ベートーヴェン《op.110》の終楽章は、後期ベートーヴェンの
作品を紐解くのに重要なキーワードでもある「フーガ」です。
「嘆きの歌Klagender Gesang」と「フーガ」が交代し、
最後の「フーガ(反行フーガに始まる)」となって、
音楽は突如速度を増して、ついにクライマックスへといたります。
ピアノ独奏曲における「最高のカタルシス」のひとつを
この音楽に見出すことができるでしょう。
「天馬が翔けのぼるような、もっと高く、もっと高く!!」
それが、今の自分のイメージです(以前にも書いたこと
あったかもしれません)。
さて、
ショパンの《幻想ポロネーズ》はといいますと・・・
やはり、
駆け上がっていくような音楽なのですね~!!
紆余曲折を経た長い生死の物語は、
再現部、冒頭テーマに神の世界を目前に見たなお、
寂しく孤独な歌をうたい、さらには只事ならぬせわしなく
不安を駆り立てられるようなざわめきがやってきます。
ざわめきが頂点に達すると、音楽は突如方向性を変え、
底のほうから沸きあがるようなユニゾンの音の流れが高まり、
ついに、曲の最後に向けて走り出します、第Iテーマを
高々と歌いながら!!
◇◆◇◆
・・・・《幻想ポロネーズ》の終わりは、
この心躍るCoda(終結部)に始まり、駆け回る音の光たちは
徐々に勢いをゆるめ、静かに・・・まるで到着するかのように
音楽の終わりへと至ります(最後にもう一度「光」が
照らされるのですが!)。
ベートーヴェン《op.110》においては、
駆け始めた天馬は、行き着くところを知らず、
走り続けるようで、その点、《幻想ポロネーズ》との
違いがあるのかもしれません。
◇◆◇◆
以前からこのショパン後期の作《幻想ポロネーズ》に、
後期ベートーヴェンの影響が見られることを書いてきていますが、
そうしたアイディアのきっかけの発端となっていますのは、
(これも以前紹介したことがあります)ショパンの友人であり、
芸術家としての最大の理解者の一人でもあるドラクロワの証言
「ショパンはわたしのためにベートーヴェンを神々しく
ひいてくれました。美学についてのどんなおしゃべりより、
この方がずっとすばらしいです」
が自分の中で糸を引いているからのようです。
同時代人の、その作曲家と直に交わい言葉を交わし、
時間を過ごした人々の言葉というものは、非常に意味の大きい
事柄のような気がいたします。
彼らはその時を生きていた人間であること、今現在を生きている
我々と変わらぬ人間であることを、これらの証言を
ファンタジーを持って受け入れることによって、彼らを
より身近に感じることのできようになるのかもしれません。
時代と場所を飛び越えた人間関係、
西洋クラシック音楽の大きな「面白」は、
このようなところにもあるような気もするのです。
ショパン《幻想ポロネーズop.61》のアイディアの相似について
先日に書きました。
では、
この記事の題名にもあるベートーヴェン最後から二番目のソナタ
《ソナタ31番op.110》の影響は、《幻想ポロネーズ》のどこに見られるのでしょう?
今の自分が思うに、両者の曲の終わり方に、
似たようなアイディアを望むことができるような気がするのです。
(もちろん、ショパンがベートーヴェンの音楽からアイディアなり
インスピレーションを受けたと考えるのが正しいでしょう)
ベートーヴェン《op.110》の終楽章は、後期ベートーヴェンの
作品を紐解くのに重要なキーワードでもある「フーガ」です。
「嘆きの歌Klagender Gesang」と「フーガ」が交代し、
最後の「フーガ(反行フーガに始まる)」となって、
音楽は突如速度を増して、ついにクライマックスへといたります。
ピアノ独奏曲における「最高のカタルシス」のひとつを
この音楽に見出すことができるでしょう。
「天馬が翔けのぼるような、もっと高く、もっと高く!!」
それが、今の自分のイメージです(以前にも書いたこと
あったかもしれません)。
さて、
ショパンの《幻想ポロネーズ》はといいますと・・・
やはり、
駆け上がっていくような音楽なのですね~!!
紆余曲折を経た長い生死の物語は、
再現部、冒頭テーマに神の世界を目前に見たなお、
寂しく孤独な歌をうたい、さらには只事ならぬせわしなく
不安を駆り立てられるようなざわめきがやってきます。
ざわめきが頂点に達すると、音楽は突如方向性を変え、
底のほうから沸きあがるようなユニゾンの音の流れが高まり、
ついに、曲の最後に向けて走り出します、第Iテーマを
高々と歌いながら!!
◇◆◇◆
・・・・《幻想ポロネーズ》の終わりは、
この心躍るCoda(終結部)に始まり、駆け回る音の光たちは
徐々に勢いをゆるめ、静かに・・・まるで到着するかのように
音楽の終わりへと至ります(最後にもう一度「光」が
照らされるのですが!)。
ベートーヴェン《op.110》においては、
駆け始めた天馬は、行き着くところを知らず、
走り続けるようで、その点、《幻想ポロネーズ》との
違いがあるのかもしれません。
◇◆◇◆
以前からこのショパン後期の作《幻想ポロネーズ》に、
後期ベートーヴェンの影響が見られることを書いてきていますが、
そうしたアイディアのきっかけの発端となっていますのは、
(これも以前紹介したことがあります)ショパンの友人であり、
芸術家としての最大の理解者の一人でもあるドラクロワの証言
「ショパンはわたしのためにベートーヴェンを神々しく
ひいてくれました。美学についてのどんなおしゃべりより、
この方がずっとすばらしいです」
が自分の中で糸を引いているからのようです。
同時代人の、その作曲家と直に交わい言葉を交わし、
時間を過ごした人々の言葉というものは、非常に意味の大きい
事柄のような気がいたします。
彼らはその時を生きていた人間であること、今現在を生きている
我々と変わらぬ人間であることを、これらの証言を
ファンタジーを持って受け入れることによって、彼らを
より身近に感じることのできようになるのかもしれません。
時代と場所を飛び越えた人間関係、
西洋クラシック音楽の大きな「面白」は、
このようなところにもあるような気もするのです。