真言密教の総本山、京都の東寺を訪れました。
数年前から、機会があれば京都を訪れては、
いっこいっこ少しずつ、京都の文化・歴史に
触れていこうと思っているのですが、
今回、数年ぶりに訪れた京都、
演奏会の予定もあり、ゆっくりと街を見る時間はなかったのですが、
わずかな時間を合い間縫って、いける場所を見つけました。
京都駅から徒歩で10分強で、東寺に行けるのでした。
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五重塔、そして講堂と金堂の「立体曼荼羅」が有名な東寺、
以前おとずれた時から、その強烈な印象は脳裏に焼き付いており、
今回、訪れることができる時間があるのならば東寺へ、
と思っていました。行ってきました。
立体曼荼羅、
ひとつの建物の中に、大小さまざまな仏像が立ち並び、
密教ならではの世界観を呈しているのだそうです。
始祖、弘法大師こと空海の案だとか・・・
講堂、
巨大な大日如来を中心とする「如来部」
その右には金剛波羅蜜多菩薩を中心とする「菩薩部」
左には不動明王を中心とする「明王部」
上記の三つの部を四方に囲む四天王に代表される「天」
暗がりの巨大な建物のなかに、見る者、おとずれる者を
視覚的にも空間的にも圧倒する仏像達のあらわす
ひとつの世界があるようです。
ふと、
明王部の前で、不動明王に上から睨みつけられていると、
インスピレーションが沸きあがりました。
どこかで、このような力強い、恐ろしいまでの迫力をもって
迫ってくる体験をどこかで知っている・・・
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あ、
ベートーヴェンだ。
ベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタ《op.111》のI楽章が
不動明王の姿と重なったのでした。
《op.111》ハ短調の調性は、ベートーヴェンの得意とする
鬼気迫る・迫力の音楽にもってこいの調性で、
有名な《交響曲5番“運命”》もこれに当てはまります。
《op.111》のI楽章もこれ。
「最後のピアノ・ソナタ」に「最期の闘い」を思わせるような音楽は、
暗がりに巨大な姿で鎮座する不動明王とその周りの仏像の成す明王部と
同じような恐ろしさ、迫力をもっていると感じたのです。
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ふと視線を右に向けると、
真言宗の教主と言われるこの講堂の最大の仏像
「大日如来」が他の如来を従えての如来部が
明王部とは異なる、聖なる落ち着きをもって世界を呈しています。
あ、
《op.111》のII楽章だ・・・
II楽章はハ長調のAdagio緩叙楽章、
澄み切った音の響きはまさに天国的、
神の国への旅立ちを思わせる音楽。
大日如来の堂々として静かなその姿に重なるものがある、
そのように思えたのです。
もしかすると、
極楽浄土へと旅立つ過程は、菩薩や阿弥陀如来に導かれて
ついには大日如来の元へとたどり着かんとする理想なのであれば、
ベートーヴェン《op.111》のII楽章は、音楽的に
これと同じような進み方をしているのではないか、
なぞとも考えられたのでした。
そうこう感じ、考えるうちに、
この講堂がひとつの「楽曲」のように思えるようになってきました。
もしかすると、
「如来部」「菩薩部」「明王部」と分かれていながらも
一つの講堂の中に現された世界は、まるで
複数楽章にまたがるソナタのよう。
一方、
東寺内の講堂の隣の建物にある金堂では、
巨大な薬師如来を中心とし、
左右に月光菩薩、日光菩薩をしたがえて、
講堂と同じ大きさをもちながらもたったの三体の仏像が並びます。
講堂に比較するとわりとシンプルなイメージがありますが、
これもひとつの「楽曲」とすると、
この金堂における三体の大きな仏像の世界が
理解・感じ取ることができるような気がしたのです。
今回の東寺訪問では思わぬ特典が付いて、
普段は公開されていない有名な五重塔の内部に入ることもできました。
すると、
ここでも立体曼荼羅、自分流の今回の解釈でいくと、
これもまるでひとつの楽曲のよう・・・
芸術と宗教の枠を超えての普遍的な人間としての活動を、
ジャンルを異にしながらも重なるものがあると
深く実感したのでした。
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数年前から、機会があれば京都を訪れては、
いっこいっこ少しずつ、京都の文化・歴史に
触れていこうと思っているのですが、
今回、数年ぶりに訪れた京都、
演奏会の予定もあり、ゆっくりと街を見る時間はなかったのですが、
わずかな時間を合い間縫って、いける場所を見つけました。
京都駅から徒歩で10分強で、東寺に行けるのでした。
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五重塔、そして講堂と金堂の「立体曼荼羅」が有名な東寺、
以前おとずれた時から、その強烈な印象は脳裏に焼き付いており、
今回、訪れることができる時間があるのならば東寺へ、
と思っていました。行ってきました。
立体曼荼羅、
ひとつの建物の中に、大小さまざまな仏像が立ち並び、
密教ならではの世界観を呈しているのだそうです。
始祖、弘法大師こと空海の案だとか・・・
講堂、
巨大な大日如来を中心とする「如来部」
その右には金剛波羅蜜多菩薩を中心とする「菩薩部」
左には不動明王を中心とする「明王部」
上記の三つの部を四方に囲む四天王に代表される「天」
暗がりの巨大な建物のなかに、見る者、おとずれる者を
視覚的にも空間的にも圧倒する仏像達のあらわす
ひとつの世界があるようです。
ふと、
明王部の前で、不動明王に上から睨みつけられていると、
インスピレーションが沸きあがりました。
どこかで、このような力強い、恐ろしいまでの迫力をもって
迫ってくる体験をどこかで知っている・・・
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あ、
ベートーヴェンだ。
ベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタ《op.111》のI楽章が
不動明王の姿と重なったのでした。
《op.111》ハ短調の調性は、ベートーヴェンの得意とする
鬼気迫る・迫力の音楽にもってこいの調性で、
有名な《交響曲5番“運命”》もこれに当てはまります。
《op.111》のI楽章もこれ。
「最後のピアノ・ソナタ」に「最期の闘い」を思わせるような音楽は、
暗がりに巨大な姿で鎮座する不動明王とその周りの仏像の成す明王部と
同じような恐ろしさ、迫力をもっていると感じたのです。
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ふと視線を右に向けると、
真言宗の教主と言われるこの講堂の最大の仏像
「大日如来」が他の如来を従えての如来部が
明王部とは異なる、聖なる落ち着きをもって世界を呈しています。
あ、
《op.111》のII楽章だ・・・
II楽章はハ長調のAdagio緩叙楽章、
澄み切った音の響きはまさに天国的、
神の国への旅立ちを思わせる音楽。
大日如来の堂々として静かなその姿に重なるものがある、
そのように思えたのです。
もしかすると、
極楽浄土へと旅立つ過程は、菩薩や阿弥陀如来に導かれて
ついには大日如来の元へとたどり着かんとする理想なのであれば、
ベートーヴェン《op.111》のII楽章は、音楽的に
これと同じような進み方をしているのではないか、
なぞとも考えられたのでした。
そうこう感じ、考えるうちに、
この講堂がひとつの「楽曲」のように思えるようになってきました。
もしかすると、
「如来部」「菩薩部」「明王部」と分かれていながらも
一つの講堂の中に現された世界は、まるで
複数楽章にまたがるソナタのよう。
一方、
東寺内の講堂の隣の建物にある金堂では、
巨大な薬師如来を中心とし、
左右に月光菩薩、日光菩薩をしたがえて、
講堂と同じ大きさをもちながらもたったの三体の仏像が並びます。
講堂に比較するとわりとシンプルなイメージがありますが、
これもひとつの「楽曲」とすると、
この金堂における三体の大きな仏像の世界が
理解・感じ取ることができるような気がしたのです。
今回の東寺訪問では思わぬ特典が付いて、
普段は公開されていない有名な五重塔の内部に入ることもできました。
すると、
ここでも立体曼荼羅、自分流の今回の解釈でいくと、
これもまるでひとつの楽曲のよう・・・
芸術と宗教の枠を超えての普遍的な人間としての活動を、
ジャンルを異にしながらも重なるものがあると
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