音楽家ピアニスト瀬川玄「ひたすら音楽」

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「カデンツ・緊張と弛緩」について語るフルトヴェングラー

2015年10月24日 | ◆一言◆
それは、人間の性質の生物学的な事実と根本的に一致しているのです。
この生物学的事物とはなんでしょうか?



そこには、まず第一に、緊張―弛緩
という問題があります。

時間とともに変動する有機的生命はみな――音楽も
もちろん時間芸術です――緊張と弛緩のあいだの変化を受けます。

この両者、つまり緊張と弛緩の上下は、
生命のリズムをあらわします。

私どもが呼吸している限り、緊張と弛緩の
どちらか一方に関係していない瞬間というものはありません。

二つの状態のなかでは、第二の、つまり
弛緩の状態のほうが、はじめの、
《より自然的》ともいえる状態です。

たとえば、多くの複雑なからだの働きで(歌唱、ヴァイオリン、ピアノ
のような楽器の演奏の場合、乗馬、スキーのときでさえも)、
弛緩が決定的な役をするということは、
近代生物学の基本理論のひとつです。

そのうえ、この弛緩は、近代ヨーロッパ人――これには
近代アメリカ人もかぞえ入れるべきです――には、
なかなか手に入れにくい状態のようで、
精力の緊張を極度に重視する現代文明の性格とは縁遠いものですが、
そのためにこそ、私どもにとってとくに重要な状態なのです。

あらゆる緊張にはじめて可能性をあたえ、程度を規定するこの弛緩は、
音楽では――このことはきわめて明確に述べておかなければならないのですが、
――ただ調性だけによって充分に効果が出るようにされているのです。

ただ調性だけが弛緩の状態を客観的に存在させ
表現させることができるのです(主観的には、個人的な気分としては、
もちろん、あらゆることが主張できますでしょう)。

そして実際、自然の主要結合音、つまり
長三和音が決定的な力として調性に結びついているからこそ、
そういうことが可能なのです。

この三和音は、弛緩を決定する二つの性質をもっています。

一、この三和音は、冒頭または最後のものです。したがって、この点に、
一種の方位確定性とでもいうものが暗に存在しているわけです(この
方位確定性がどういう意味をもつのかは、もっとあとになってわかるでしょう)。
こうして、この三和音は、経過的なものではないのです。

二、三和音は、それだけで充分なものなのです。
だから永遠につづくことができます。

ある交響曲の冒頭(たとえば静止的な変ホ長調和音をもった
アントン・ブルックナーの「ロマン的」交響曲の冒頭)は、
音楽で生ずることのできる弛緩の典型的なものをつくりだしています。



さて、調的な音楽では、この
三和音の確固とした基礎の上に、
カデンツがおかれています。

生命の多様な姿をとらえ、そして結局――弛緩が生じた
法則に従って――ふたたび出発点に、いわゆる
トニカにもどるために、弛緩から緊張が生じます。

弛緩と緊張は、おたがいにきわめて密接な交替関係をなしているのです。
弛緩が平静で完全なものであればあるほど、この弛緩にもとづいて
生じうる緊張は、いっそう強烈なものとなります。

それどころか、緊張に対応して先行せねばならない弛緩によってのみ、
はじめてあらゆる種類の緊張が可能になり、
ふたたび弛緩にもどる行程をみつけることができるのです。

こういうわけで、調的な音楽のどの名曲も、
人間の理解できる限界まで興奮を駆りたてることができる反面で、
すべてのものいっさいにしみわたるような、
――神の尊厳を想起するかのように――
深遠でゆるぎのない平静さの感じもあたえます。



・・・・・・・・・・・・
以上、
フルトヴェングラー著『音楽を語る』より抜粋







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