
調性の基礎をなすもの、つまり、
調の範囲内で音楽が進むときの基礎となるものは、
カデンツです。カデンツでひとつの調性が《決定》されます。
そのもっともかんたんな進行、すなわち、
下属和音への進行、それから上属和音への進行、そして最後には、
基和音へもどる進行で、ある特定の区域が通過されるわけです。
こうして、この進行では、たんにある和音がそれに隣接する和音、
したがってその前と後の和音と因果関係をもっているばかりでなく、
―これは決定的なことですが―
カデンツをなすすべての和音を、その最初のものから最後のものまで、
たがいに結び合わせている大きな、もっと高次の関係も生まれるのです。
こういうわけで、この高次の関係で、つまり
カデンツでつくられたこの区域で、
何よりも決定的なことが生ずるのです。
いいかえると、音楽が《形態》をうることができるようになるのです。
音楽は出発点をみつけだし、
通過できる道と到達できる終点を見いだしたのです。
これによって音楽の音素材に、以前にはなかった
明確さというものがはいってきたのです。
またそれ以前でも、音楽は《調的》だったのですが、
この調性は浮動していて、旋法(教会旋法)に分けられていたのです。
長調と短調だけの調性で音楽を進ませたのは、
連続の力なのですが、
今日ではもう私どもがほとんど想像もできないくらいに、この力は、
当時の人びとに魅惑的に、それどころかむしろ酔わすように作用しました。
人びとが、着実に一歩一歩とこの力を手に入れるのに、何百年も費やしたことは、
充分に理解できます。それは、すべての現実の自然法則と同じように、
―というのも、ここでそういうものが問題だからです―
模索的な出発から絶えず一様に発展し、結局、
調性の法則として、ヨーロッパ人の音楽的思惟と感情を完全に、
しかも例外なく占有するまでになりました。
偉大な発見の分野のなかで、
なにかあるひとつのことだけが重要なのと同じように、
ここでも実際のところ、ある自然の力が問題なのです。
こういうことはまた、なかでも、歌を歌う人たちのグループにでも、
あるいはたとえば子供たち(音楽の神童)あるいは
それをこれまで知らなかった外地の人(たとえば日本人)にでも、
それがまったく私たちに対するのと同じような意味で
拘束力をもっていることが証明されます。
この場合に、それは、もっとも単純な音楽形態でも、
もっとも複雑な音楽的な創造物でも、
同じように強く効果をあらわします。
その全能な力は、最小のものにでも最大のものにでも通用されます。
レーガー、シュトラウス、ドビュッシー、
初期のストラヴィンスキーなどまでのすべてのヨーロッパ音楽は、
完全にカデンツの張りつめた巨大なアーチの下にあるのです。
厳格に調的な音楽は、まったくのところ、
《カデンツ》の引きしまった系列となっているということができます。
バッハのフーガ、ベートーヴェンの交響曲楽章―たとえば、
第九交響曲の第一楽章―は、まったく文字どおり、
巨大なものにまでおしひろげられたカデンツをあらわしています。
ヴィーンの音楽家ハウアーは今世紀初頭に、
ベートーヴェンがその一生涯のあいだ、
ただカデンツだけを書いていたという《発見》をしました。
まったく、そういうひとつの発見がなされねばならなかったあの時代の
傾向どおり、ハウアーは、それで同時に、ベートーヴェンの音楽の
終局的な定義と、したがって解明とに対する鍵をみつけたと信じたのです。
だが、《ただ》カデンツだけとは。
あたかも、それでベートーヴェンの音楽の意味について、
なにかあることがいいつくされるかのようです。
しかし、こういうことは、シーザーとビスマルクが
根本的には《ただ》水あるいは酸素からできていたというのと
まったく同じことなのです。この《発見》をいくらかでも自慢するのは、
概念のはなはだしい貧困そのものによるのです。
また、調性が古典派の人たちの場合ほどに
全曲の構成に厳格に作用をおよぼしていないところでも、
調性は、やはり勢力をもっています。
調性は、土台のまとまりをしっかりとさせます。
たがいにならんでいるそれぞれの和音を越えた高い関係がみられ
ないところでも、すべて、調性は論議されなければなりません。
調的な楽曲は、このようにして、大海の姿といったものをみせているのです。
ここでは大きな波の上に小さな波があり、
その上にさらに小さな波がある・・・といったものです。
ここで波は、カデンツの緊張のようなもので、
大きい波からだんだんと小さい波へとかさなっているのです。
こういうわけで、私たちの意図や希望とはかかわりなく作用をおよぼす、
独立した力のひとつの体系というものに、
私たちは関係しなければなりません。
私どもの表出意欲とこの力の表出意欲とが一致し、一体となってはじめて、
芸術作品が生まれるのです。
そうして、そうなっていてこそ、この芸術作品は、
私たちが何百年以来いまやヨーロッパ音楽のりっぱな名曲で認めることができるのと
まったく同じように、つねにあらゆる人間とあらゆる時代とに対して
同じように作用する特徴、否定できないくらいに価値のある説得力をもった特性、
といったものをもつことができるのです。
・・・・・・・・・・・・
以上、
フルトヴェングラー著『音楽を語る』より抜粋
♪
調の範囲内で音楽が進むときの基礎となるものは、
カデンツです。カデンツでひとつの調性が《決定》されます。
そのもっともかんたんな進行、すなわち、
下属和音への進行、それから上属和音への進行、そして最後には、
基和音へもどる進行で、ある特定の区域が通過されるわけです。
こうして、この進行では、たんにある和音がそれに隣接する和音、
したがってその前と後の和音と因果関係をもっているばかりでなく、
―これは決定的なことですが―
カデンツをなすすべての和音を、その最初のものから最後のものまで、
たがいに結び合わせている大きな、もっと高次の関係も生まれるのです。
こういうわけで、この高次の関係で、つまり
カデンツでつくられたこの区域で、
何よりも決定的なことが生ずるのです。
いいかえると、音楽が《形態》をうることができるようになるのです。
音楽は出発点をみつけだし、
通過できる道と到達できる終点を見いだしたのです。
これによって音楽の音素材に、以前にはなかった
明確さというものがはいってきたのです。
またそれ以前でも、音楽は《調的》だったのですが、
この調性は浮動していて、旋法(教会旋法)に分けられていたのです。
長調と短調だけの調性で音楽を進ませたのは、
連続の力なのですが、
今日ではもう私どもがほとんど想像もできないくらいに、この力は、
当時の人びとに魅惑的に、それどころかむしろ酔わすように作用しました。
人びとが、着実に一歩一歩とこの力を手に入れるのに、何百年も費やしたことは、
充分に理解できます。それは、すべての現実の自然法則と同じように、
―というのも、ここでそういうものが問題だからです―
模索的な出発から絶えず一様に発展し、結局、
調性の法則として、ヨーロッパ人の音楽的思惟と感情を完全に、
しかも例外なく占有するまでになりました。
偉大な発見の分野のなかで、
なにかあるひとつのことだけが重要なのと同じように、
ここでも実際のところ、ある自然の力が問題なのです。
こういうことはまた、なかでも、歌を歌う人たちのグループにでも、
あるいはたとえば子供たち(音楽の神童)あるいは
それをこれまで知らなかった外地の人(たとえば日本人)にでも、
それがまったく私たちに対するのと同じような意味で
拘束力をもっていることが証明されます。
この場合に、それは、もっとも単純な音楽形態でも、
もっとも複雑な音楽的な創造物でも、
同じように強く効果をあらわします。
その全能な力は、最小のものにでも最大のものにでも通用されます。
レーガー、シュトラウス、ドビュッシー、
初期のストラヴィンスキーなどまでのすべてのヨーロッパ音楽は、
完全にカデンツの張りつめた巨大なアーチの下にあるのです。
厳格に調的な音楽は、まったくのところ、
《カデンツ》の引きしまった系列となっているということができます。
バッハのフーガ、ベートーヴェンの交響曲楽章―たとえば、
第九交響曲の第一楽章―は、まったく文字どおり、
巨大なものにまでおしひろげられたカデンツをあらわしています。
ヴィーンの音楽家ハウアーは今世紀初頭に、
ベートーヴェンがその一生涯のあいだ、
ただカデンツだけを書いていたという《発見》をしました。
まったく、そういうひとつの発見がなされねばならなかったあの時代の
傾向どおり、ハウアーは、それで同時に、ベートーヴェンの音楽の
終局的な定義と、したがって解明とに対する鍵をみつけたと信じたのです。
だが、《ただ》カデンツだけとは。
あたかも、それでベートーヴェンの音楽の意味について、
なにかあることがいいつくされるかのようです。
しかし、こういうことは、シーザーとビスマルクが
根本的には《ただ》水あるいは酸素からできていたというのと
まったく同じことなのです。この《発見》をいくらかでも自慢するのは、
概念のはなはだしい貧困そのものによるのです。
また、調性が古典派の人たちの場合ほどに
全曲の構成に厳格に作用をおよぼしていないところでも、
調性は、やはり勢力をもっています。
調性は、土台のまとまりをしっかりとさせます。
たがいにならんでいるそれぞれの和音を越えた高い関係がみられ
ないところでも、すべて、調性は論議されなければなりません。
調的な楽曲は、このようにして、大海の姿といったものをみせているのです。
ここでは大きな波の上に小さな波があり、
その上にさらに小さな波がある・・・といったものです。
ここで波は、カデンツの緊張のようなもので、
大きい波からだんだんと小さい波へとかさなっているのです。
こういうわけで、私たちの意図や希望とはかかわりなく作用をおよぼす、
独立した力のひとつの体系というものに、
私たちは関係しなければなりません。
私どもの表出意欲とこの力の表出意欲とが一致し、一体となってはじめて、
芸術作品が生まれるのです。
そうして、そうなっていてこそ、この芸術作品は、
私たちが何百年以来いまやヨーロッパ音楽のりっぱな名曲で認めることができるのと
まったく同じように、つねにあらゆる人間とあらゆる時代とに対して
同じように作用する特徴、否定できないくらいに価値のある説得力をもった特性、
といったものをもつことができるのです。
・・・・・・・・・・・・
以上、
フルトヴェングラー著『音楽を語る』より抜粋
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