「そこで、
もしある人が音楽に心を委ねて笛の音に魅せられるにまかせ、
先ほどわれわれが語っていたような、甘く、柔かく、もの悲しい調べを、
耳を通してあたかも漏斗(じょうご)を通して流しこむように、
魂へ注ぎこまれるにまかせるとしたら、そして、
曲を口ずさみ歌の魅力のもとに心を楽しませながら全生活を送るとしたら、
たしかに最初のうちは、
彼がいくばくかの気概の性格をもっているとすれば、
ちょうど硬くて使えない鉄を柔かくして使えるものに作り上げるのと同じような効果を、
その人の内にある気概の部分に与えることになる。
けれども、
もしそのまま休めずに気概を魅惑しつづけるならば、
やがてそれを溶かして流すところまで行き、
ついには気力をすっかり溶かし去って、
いわば支えとなる筋を魂から切り取ってしまったように、
魂を『柔弱な戦士』に仕上げることになるだろう」
「たしかにおっしゃるとおりです」と彼は答えた。
・・・・・
「ではこんどは逆に、
体育によって大いに鍛錬を積み、御馳走も大いに食べるけれども、
しかし音楽・文芸や知の追求はいっさいしないという場合は、
どういうことになるだろうか?
はじめのうちは、身体が好調なので自負と気概に満ち、
もともとの自分よりも勇敢になるのではないだろうか」
「ええ、たしかに」
「しかし、もしそのまま他のことは何もせず、
ムゥサの女神ともいっさいおつき合いしないでいるならば、
どういう結果になるだろうか?
かりにその人の魂の内に学びを好む性格がいくらかあったとしても、
学びや探求を何ひとつ実際に味わいもせず、
いかなる言論にも、その他の教養(ムゥサの技芸)にも関与しないのだから、
せっかくのその好学の性格も、無力で聾盲になってしまうのではないか?
目覚めさせられることなく、養い育てられることもなく、
またそれの感覚も純化されないままでいるのだからね」
「そのとおりです」と彼は答えた。
「こうして、思うにそのような人は、
言論嫌いの人間になり、ムゥサの学芸に縁なき無教養の人間となる。
そして、もはや言論による説得はいっさい用いないで、
獣のように暴力と粗暴さをもってすべての目的を達成するようになり、
無知と暗愚のうちに、よきリズムと品性を欠いた生活を送ることになるのだ」
「まったくおっしゃるとおりです」と彼は答えた。
「こうして、どうやらこれら二つのもののために、
ある神が二つの技術を人間に与えたもうたのだと、
ぼくとしては主張したい。
すなわち、
気概的な要素と知を愛する要素のために、音楽・文芸と、体育とをね。
これらはけっして、
魂と身体のために ― 副次的な効果は別そして ― 与えられたのではなく、
いま言った二つの要素のために、
それらが適切な程度まで締められたり弛められたりすることによって、
互いに調和し合うようにと与えられたものなのだ」
「たしかにそのように思われます」と彼は言った。
「してみると、音楽・文芸と体育とを最もうまく混ぜ合わせて、
最も適宜な仕方でこれを魂に差し向ける人、
そのような人をこそわれわれは・・・
最も完全な意味で音楽的教養のある人、
よき調和を達成した人であると主張すれば、
いちばん正しいことになるだろう」
「たしかに当を得た主張といえましょう、ソクラテス」と彼は言った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以上、プラトン著『国家』からの抜粋(411A~)でした。
まさに、
「文武両道」
を推奨している、ということでしょうか。
音楽家である私は、これを読んで、
あぁ、やっぱり、運動しよう
と思わされたのでした。
♪
もしある人が音楽に心を委ねて笛の音に魅せられるにまかせ、
先ほどわれわれが語っていたような、甘く、柔かく、もの悲しい調べを、
耳を通してあたかも漏斗(じょうご)を通して流しこむように、
魂へ注ぎこまれるにまかせるとしたら、そして、
曲を口ずさみ歌の魅力のもとに心を楽しませながら全生活を送るとしたら、
たしかに最初のうちは、
彼がいくばくかの気概の性格をもっているとすれば、
ちょうど硬くて使えない鉄を柔かくして使えるものに作り上げるのと同じような効果を、
その人の内にある気概の部分に与えることになる。
けれども、
もしそのまま休めずに気概を魅惑しつづけるならば、
やがてそれを溶かして流すところまで行き、
ついには気力をすっかり溶かし去って、
いわば支えとなる筋を魂から切り取ってしまったように、
魂を『柔弱な戦士』に仕上げることになるだろう」
「たしかにおっしゃるとおりです」と彼は答えた。
・・・・・
「ではこんどは逆に、
体育によって大いに鍛錬を積み、御馳走も大いに食べるけれども、
しかし音楽・文芸や知の追求はいっさいしないという場合は、
どういうことになるだろうか?
はじめのうちは、身体が好調なので自負と気概に満ち、
もともとの自分よりも勇敢になるのではないだろうか」
「ええ、たしかに」
「しかし、もしそのまま他のことは何もせず、
ムゥサの女神ともいっさいおつき合いしないでいるならば、
どういう結果になるだろうか?
かりにその人の魂の内に学びを好む性格がいくらかあったとしても、
学びや探求を何ひとつ実際に味わいもせず、
いかなる言論にも、その他の教養(ムゥサの技芸)にも関与しないのだから、
せっかくのその好学の性格も、無力で聾盲になってしまうのではないか?
目覚めさせられることなく、養い育てられることもなく、
またそれの感覚も純化されないままでいるのだからね」
「そのとおりです」と彼は答えた。
「こうして、思うにそのような人は、
言論嫌いの人間になり、ムゥサの学芸に縁なき無教養の人間となる。
そして、もはや言論による説得はいっさい用いないで、
獣のように暴力と粗暴さをもってすべての目的を達成するようになり、
無知と暗愚のうちに、よきリズムと品性を欠いた生活を送ることになるのだ」
「まったくおっしゃるとおりです」と彼は答えた。
「こうして、どうやらこれら二つのもののために、
ある神が二つの技術を人間に与えたもうたのだと、
ぼくとしては主張したい。
すなわち、
気概的な要素と知を愛する要素のために、音楽・文芸と、体育とをね。
これらはけっして、
魂と身体のために ― 副次的な効果は別そして ― 与えられたのではなく、
いま言った二つの要素のために、
それらが適切な程度まで締められたり弛められたりすることによって、
互いに調和し合うようにと与えられたものなのだ」
「たしかにそのように思われます」と彼は言った。
「してみると、音楽・文芸と体育とを最もうまく混ぜ合わせて、
最も適宜な仕方でこれを魂に差し向ける人、
そのような人をこそわれわれは・・・
最も完全な意味で音楽的教養のある人、
よき調和を達成した人であると主張すれば、
いちばん正しいことになるだろう」
「たしかに当を得た主張といえましょう、ソクラテス」と彼は言った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以上、プラトン著『国家』からの抜粋(411A~)でした。
まさに、
「文武両道」
を推奨している、ということでしょうか。
音楽家である私は、これを読んで、
あぁ、やっぱり、運動しよう
と思わされたのでした。
♪