以下、ちょっと誤解を生むかもしれない危険な発言ですが・・・
クラシック音楽の演奏は「私の思いを表現する」のではなく、あくまでも「楽曲を表現する」もの、そこに奏者の「私の思いも重なっている」ような状態が好ましい?、と思い、以上を文にしてみました
楽曲を演奏しながらも、私の思いが重ならなかったり、その逆で、私の思いはあるけれど、それが楽曲のそれとは必ずしも合っていない場合もあるかもしれません・・・ 奏者は第一に、楽曲に向かい合う、そしてその「楽曲の思い」を汲み取れるよう勉強する、これこの道の極意?
「楽曲の思い」は、千差万別!! 人間の一生をかけても、その全てを網羅することは出来ないでしょう・・・個人の限界はあって当然。だから焦らず安心して!?目の前の一曲を大切にする、そう思うのは気持ちいいことのような気がしてきました。
楽曲の思いを汲み取る、これが一筋縄ではいかない・・・! そのためにも音楽の勉強が必要なのですね。色々な汲み取り方がありそう。楽理にテクニック、歴史、作者の伝記、その人となりを知ることも!色々勉強することで、奏者自身の思いの器もまた拡がるのかもしれません
以上、十代の頃に訳も分からず弾き潰して!?いた楽曲を前に反省し、考えました。自分の思いばかりが先行して、楽曲の形が成っていない・・・楽曲の形に目が行かないほどに自分の思いが先行してしまっては、きっとよい音楽にはならないだろうと、今は思われます。修正はなかなか大変です!
「初めが肝心」、なるほど、初めに正しく作っておけば、あとで余計な修正を施さなくて済む。とはいえ、失敗経験をしながら成功の方法が見えてくることもあるのだから、初めが肝心だからといって、失敗を怖れ過ぎてもいけない、とも思いました。
失敗を怖れない、とはいえ・・・本当に失敗してしまったことを放ってしまい、その経験を次に活かすよう努力しなければ、それこそどうしようもない失敗となってしまうでしょう・・・ 精進せねば!
「楽曲の思い」が汲み取れるよう「奏者の思い」を育てる必要がある!? そのために勉強する・人生経験を沢山する!?