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その苦しみをひそかに文章に綴りながら、その中で自問自答し、時には神に訴え、また古今東西の先人たちの思想の深奥に分け入って自己省察を重ねていった。それが、1812年秋から1818年まで書き綴られた『日記』である。
これまでベートーヴェンについては、その天才は称揚されてきたが、彼自身の哲学的思考や、その音楽の背後にある思想的背景については語られることが少なかった。この『日記』では、自分の生き方を含めて、人間と世界についての究極的な問い直しを迫られた、人間ベートーヴェンの生の姿がかいま見られる。そして、彼のアイデンティティーのよりどころがどこにあるのか、その原点がありのままに示されている。ほとんど日付がなく、内容も雑多で、彼自身の文章よりも書物からの引用の方が多く、理解に苦しむ文章もままあるこの記録が重要なのは、まさにその点である。
まずそこには、「私は格言によって養われた」と彼自身語っていたように、少年時代から親しんできたホメロスやプルタルコス、あるいはプリニウスといったヨーロッパの古典からの寸言の引用があちこちに散在している。アドルフ・ミュルナーやツァハリアス・ヴェルナーなど「運命悲劇」の創始者とよばれる人々の作品が引用されているのは、わが身につまされてこれらに作曲しようとしたものと思われる。
またこの危機の時代に特に彼が熟読したのは、カントだった。それも『一般的自然史と天体の理論』のような専門的著作である。彼は人間を、自然界、さらに言えば宇宙との関連において把握しようとしていたことがわかる。「われらの内なる道徳律とわれらの上なる星空/カント」と、のちに彼が書きとめた言葉の源がここにある。
詩人の作品でもっとも引用が多いのは、ヨーハン・ゴットフリート・ヘルダーのものである。ヘルダーは日本ではあまり知られていないが、人類学や言語学のすぐれた先駆者でありながら、幼時から人生の辛酸をなめて成長した人だった。その詩に、人間についての深い省察がにじみ出ているのは、そのせいと思われる。当時のベートーヴェンにとって、それらは心に沁みるものだったに違いない。たとえば次のような引用がある。
沈黙を学べ、おお友よ、話すことは銀にもひとしいが、時期を得た沈黙は純金だ。
*
神を愛する者は、世間を過大に尊重したりはしない。
世間が確かな歩みを何も与えてくれないのを、その者は知っているからだ。
学問を培うがよい、なぜなら賢者たちが長いこと踏みならした径ほど
人にとって確かな道はないのだから。
そしてもっとも意外に思われるかもしれないのは、『日記』に示されているベートーヴェンのインド思想への造詣の深さである。古代インドの叙事詩『マハーバーラタ』や、その叙事詩の一篇である『パガヴァッド・ギーター』、あるいはカーリダーサの戯曲『シャクンタラー』などの引用がしばしば見られる。その他にも、『ブラーフマニズムの宗教体系』といった専門的著作や『リグ・ヴェーダ』などの聖典にも親しんでいたことがわかる。またある頁には、インドの音階が書きとめてあり、彼が「インド的合唱曲」を作曲しようとしていたことも、東洋学者フォン・ハンマーとの往復書簡によって知られている。
だがこうした彼の関心は、音楽家としての知的な欲求だけから生まれたのではない。近代的な人権と自我の確立だけでは、人間の究極的な苦悩は救われないという自分自身の体験に導かれたものだったと考えられる。たとえば、次のような文章がある。
運命よ、おまえの力を示せ! 私たちは自分自身の主ではない。定められたことは、そ
うなる他はないのだ。それならそうなるがよい!
これは、引用文なのかベートーヴェン自身の言葉なのか、『日記』の中でも判然としない文章の一つだが、ここに見られるのは西洋的人間主義でも、いわゆる東洋的宿命観でもない。運命を受容しながらそれを超えようとする、ある種の悟りの境地である。それは彼が引用している『パガヴァッド・ギーター』の次の文章と重なっている。
己のあらゆる情熱を抑制し、ことの結果を気にせずに、己の行動力を傾注して、人
生の解決すべきあらゆる事柄にあたる「者」は、幸いかな!
そして、ベートーヴェン自身の次の言葉は、そのような省察から生まれ出たのではなかったろうか。
万物は、純粋に澄みきって神より流れ出る。たとえ度々悪への情熱に駆られて目を曇ら
せようとも、私はいく重にも悔恨と浄化を重ねて、至高なる純粋な源泉、神性へとたちも
どった――そして――おんみの芸術へと。
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青木やよひ著 『ベートーヴェンの生涯』 平凡社新書より抜粋
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その苦しみをひそかに文章に綴りながら、その中で自問自答し、時には神に訴え、また古今東西の先人たちの思想の深奥に分け入って自己省察を重ねていった。それが、1812年秋から1818年まで書き綴られた『日記』である。
これまでベートーヴェンについては、その天才は称揚されてきたが、彼自身の哲学的思考や、その音楽の背後にある思想的背景については語られることが少なかった。この『日記』では、自分の生き方を含めて、人間と世界についての究極的な問い直しを迫られた、人間ベートーヴェンの生の姿がかいま見られる。そして、彼のアイデンティティーのよりどころがどこにあるのか、その原点がありのままに示されている。ほとんど日付がなく、内容も雑多で、彼自身の文章よりも書物からの引用の方が多く、理解に苦しむ文章もままあるこの記録が重要なのは、まさにその点である。
まずそこには、「私は格言によって養われた」と彼自身語っていたように、少年時代から親しんできたホメロスやプルタルコス、あるいはプリニウスといったヨーロッパの古典からの寸言の引用があちこちに散在している。アドルフ・ミュルナーやツァハリアス・ヴェルナーなど「運命悲劇」の創始者とよばれる人々の作品が引用されているのは、わが身につまされてこれらに作曲しようとしたものと思われる。
またこの危機の時代に特に彼が熟読したのは、カントだった。それも『一般的自然史と天体の理論』のような専門的著作である。彼は人間を、自然界、さらに言えば宇宙との関連において把握しようとしていたことがわかる。「われらの内なる道徳律とわれらの上なる星空/カント」と、のちに彼が書きとめた言葉の源がここにある。
詩人の作品でもっとも引用が多いのは、ヨーハン・ゴットフリート・ヘルダーのものである。ヘルダーは日本ではあまり知られていないが、人類学や言語学のすぐれた先駆者でありながら、幼時から人生の辛酸をなめて成長した人だった。その詩に、人間についての深い省察がにじみ出ているのは、そのせいと思われる。当時のベートーヴェンにとって、それらは心に沁みるものだったに違いない。たとえば次のような引用がある。
沈黙を学べ、おお友よ、話すことは銀にもひとしいが、時期を得た沈黙は純金だ。
*
神を愛する者は、世間を過大に尊重したりはしない。
世間が確かな歩みを何も与えてくれないのを、その者は知っているからだ。
学問を培うがよい、なぜなら賢者たちが長いこと踏みならした径ほど
人にとって確かな道はないのだから。
そしてもっとも意外に思われるかもしれないのは、『日記』に示されているベートーヴェンのインド思想への造詣の深さである。古代インドの叙事詩『マハーバーラタ』や、その叙事詩の一篇である『パガヴァッド・ギーター』、あるいはカーリダーサの戯曲『シャクンタラー』などの引用がしばしば見られる。その他にも、『ブラーフマニズムの宗教体系』といった専門的著作や『リグ・ヴェーダ』などの聖典にも親しんでいたことがわかる。またある頁には、インドの音階が書きとめてあり、彼が「インド的合唱曲」を作曲しようとしていたことも、東洋学者フォン・ハンマーとの往復書簡によって知られている。
だがこうした彼の関心は、音楽家としての知的な欲求だけから生まれたのではない。近代的な人権と自我の確立だけでは、人間の究極的な苦悩は救われないという自分自身の体験に導かれたものだったと考えられる。たとえば、次のような文章がある。
運命よ、おまえの力を示せ! 私たちは自分自身の主ではない。定められたことは、そ
うなる他はないのだ。それならそうなるがよい!
これは、引用文なのかベートーヴェン自身の言葉なのか、『日記』の中でも判然としない文章の一つだが、ここに見られるのは西洋的人間主義でも、いわゆる東洋的宿命観でもない。運命を受容しながらそれを超えようとする、ある種の悟りの境地である。それは彼が引用している『パガヴァッド・ギーター』の次の文章と重なっている。
己のあらゆる情熱を抑制し、ことの結果を気にせずに、己の行動力を傾注して、人
生の解決すべきあらゆる事柄にあたる「者」は、幸いかな!
そして、ベートーヴェン自身の次の言葉は、そのような省察から生まれ出たのではなかったろうか。
万物は、純粋に澄みきって神より流れ出る。たとえ度々悪への情熱に駆られて目を曇ら
せようとも、私はいく重にも悔恨と浄化を重ねて、至高なる純粋な源泉、神性へとたちも
どった――そして――おんみの芸術へと。
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青木やよひ著 『ベートーヴェンの生涯』 平凡社新書より抜粋
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