「努力」したことが「認められる」時に、
少なからぬ満足感があることを前述(先の記事に)しました。
そしてこれは、
人生において、満足感を得るにあたっての
ひとつの「コツ」であるようにも思えました。
すなわち、
満足感を得るためには、
まずは前提条件として「努力」していることなのではないでしょうか。
それは「努力」していることが「認め」られる時に満足感が現れるならば、
「努力」せずしては、
この状態にはなり得ないのは自明の理です。
(もちろん、努力しなくても満足できることだってあるでしょうから、
今回の考察は、あくまで「ひとつ」の可能性ということでご了承下さい)
というわけで、
「努力」せずしては「満足」は無い、
ということになるわけですが・・・
では、
努力したからといって、それが常に認められるかどうか・・・
これが問題になってくるようでもありましょうか・・・
いつも認められるわけでは無さそうなのは、
人生の経験を積んできた人なら、皆さん分かりそうなものですよね。
そう、現実は、どうも、そう甘いものではなさそう・・・
というわけで、好ましいのは、
「努力」の内容が、「認め」てもらえるものであること。
その努力が、
●認めてもらえる状況にあること
●認めてもらえる条件を満たしていること
さらに考えてみますと、
こうした条件をクリアする努力の内容とは、
「善いこと」のための努力であること、
なのではないかと、思います。
「善いこと」だなんて、
あまりに単純・キレイゴトのようですが、されど
これは哲学の課題にもなる重要なひとつでもあるのです。
「善いこと」のために「努力」する。
すると、その努力が実を結んでいるとき、
それが認められることがあったら、
それは努力している本人の満足・モチベーションの向上へと
つながるのかもしれません。
反対に、こんなことも考えられるのですが、
例えば、カタギでない人・ヤクザな人の間では、
「悪しきこと」に努力を傾け、それが
認められて、満足につながることだって、あるのではないでしょうか・・・
世間に馴染めず、うとんじられて来たハグレ者が、
ヤクザな世界において、「悪しきこと」を成して、
それが認められたとき、その人が今まで経験したことのなかった
「認められる」ことによる「満足感」を享受したとき、
この人は、
「自分はこの世界で生きる、親分のために命を捨ててもいい」
と、
強く心に思うことがあるのかもしれません・・・
(ヤクザ映画によくある話!?)
ポイントは、やはり、
いずれにせよもたらされた「満足感」が、
その人の生きる気力・モチベーションに
つながったと考えることは出来るでしょう。
とはいえ、きっとやはり、
「悪しきこと」を求めるのは、
世界・社会全体からの割合でいえば
少数派に属すると考えられないでしょうか?
だから、
「善いこと」をした方が、それだけ
認められる可能性も高い、と、
単純に考えてもいいのではないでしょうか。
もちろん、
「中道」の真理を考えると、「善いこと」の方が
「悪しきこと」よりも多いとは一概に言えないかもしれませんが・・・しかし、
ネガティブを敢えて許す・目指す必要はどこにも無いと信じたいです。
どうせ「悪」も存在せざるを得ないもの・・・だから、
敢えてそれを目指すことを「よし」としない心構えは、
よい人生を送る上での鍵になるのではないでしょうか。
「善いこととはどんなことか?」という問題は、
ちょっと今回は触れないようにさせていただきますが・・・
いずれにせよ、
「善いこと」に努力を払って、「満足」を得る。
これを実現し、継続されゆけるのならば、
これはとっっっても素敵なことと思われました。
♪
少なからぬ満足感があることを前述(先の記事に)しました。
そしてこれは、
人生において、満足感を得るにあたっての
ひとつの「コツ」であるようにも思えました。
すなわち、
満足感を得るためには、
まずは前提条件として「努力」していることなのではないでしょうか。
それは「努力」していることが「認め」られる時に満足感が現れるならば、
「努力」せずしては、
この状態にはなり得ないのは自明の理です。
(もちろん、努力しなくても満足できることだってあるでしょうから、
今回の考察は、あくまで「ひとつ」の可能性ということでご了承下さい)
というわけで、
「努力」せずしては「満足」は無い、
ということになるわけですが・・・
では、
努力したからといって、それが常に認められるかどうか・・・
これが問題になってくるようでもありましょうか・・・
いつも認められるわけでは無さそうなのは、
人生の経験を積んできた人なら、皆さん分かりそうなものですよね。
そう、現実は、どうも、そう甘いものではなさそう・・・
というわけで、好ましいのは、
「努力」の内容が、「認め」てもらえるものであること。
その努力が、
●認めてもらえる状況にあること
●認めてもらえる条件を満たしていること
さらに考えてみますと、
こうした条件をクリアする努力の内容とは、
「善いこと」のための努力であること、
なのではないかと、思います。
「善いこと」だなんて、
あまりに単純・キレイゴトのようですが、されど
これは哲学の課題にもなる重要なひとつでもあるのです。
「善いこと」のために「努力」する。
すると、その努力が実を結んでいるとき、
それが認められることがあったら、
それは努力している本人の満足・モチベーションの向上へと
つながるのかもしれません。
反対に、こんなことも考えられるのですが、
例えば、カタギでない人・ヤクザな人の間では、
「悪しきこと」に努力を傾け、それが
認められて、満足につながることだって、あるのではないでしょうか・・・
世間に馴染めず、うとんじられて来たハグレ者が、
ヤクザな世界において、「悪しきこと」を成して、
それが認められたとき、その人が今まで経験したことのなかった
「認められる」ことによる「満足感」を享受したとき、
この人は、
「自分はこの世界で生きる、親分のために命を捨ててもいい」
と、
強く心に思うことがあるのかもしれません・・・
(ヤクザ映画によくある話!?)
ポイントは、やはり、
いずれにせよもたらされた「満足感」が、
その人の生きる気力・モチベーションに
つながったと考えることは出来るでしょう。
とはいえ、きっとやはり、
「悪しきこと」を求めるのは、
世界・社会全体からの割合でいえば
少数派に属すると考えられないでしょうか?
だから、
「善いこと」をした方が、それだけ
認められる可能性も高い、と、
単純に考えてもいいのではないでしょうか。
もちろん、
「中道」の真理を考えると、「善いこと」の方が
「悪しきこと」よりも多いとは一概に言えないかもしれませんが・・・しかし、
ネガティブを敢えて許す・目指す必要はどこにも無いと信じたいです。
どうせ「悪」も存在せざるを得ないもの・・・だから、
敢えてそれを目指すことを「よし」としない心構えは、
よい人生を送る上での鍵になるのではないでしょうか。
「善いこととはどんなことか?」という問題は、
ちょっと今回は触れないようにさせていただきますが・・・
いずれにせよ、
「善いこと」に努力を払って、「満足」を得る。
これを実現し、継続されゆけるのならば、
これはとっっっても素敵なことと思われました。
♪