「全ての音がクリアに聴こえる」という演奏はよいことと言われていますが、それは「全ての音が均質」であるとは限らず、いや!そうではなく、「全ての音がそれぞれの役割をこなして」いて明瞭である、これが本当の「全ての音がクリアに聴こえる」なのでは!?
「全ての音をクリアに」・・・と思うと、全ての音を均質に弾かねばクリアにはならない・・・?という厳しい課題を思ってしまいがち・・・。しかし音楽には少なからずあらゆる場面に抑揚があるはず、機械的・無機質な均質とは対極にある、この矛盾に自分は苦しめられてきたように思われます
今ここでまとめてみたいのは、クリアな演奏とは、全ての音が均質に聴こえてくる演奏ではなく、全ての音が、それぞれの音の役割・意味を充実させている時、それが真にクリアな演奏と聴こえる、と信じます。知性と感性を総動員して「音」に向き合う!その全ての意味を掴まんとす!
和音としての役割(トニカ、ドミナント、サブドミナント、他色々)を見付け、分かり、感じるのはもちろん、最近では、和音を構成するそれぞれの「単音」そのものに、すでに役割・音の意味・力が備わっているようにも思えてきました。II.IV.VI.に秘密が!?
自分が演奏している単音、和音が何であるか、それを分かり、感じて音楽を追い続ける、これに成功している時、クリアな演奏となるのであればよいですね!もちろん、それを実現させることのできる身体・テクニックも不可欠です!
しかし、(しつこいですが、自分自身の内にある誤解を脱却するためにももう一度!) クリアな演奏は、均質な音を並べようと練習するのではないことをよく心得て、音楽に向き合いたいと、今は強く思います!
クラシック音楽の洗練の極みに達したような作品達には、全ての音に意味がある。全ての音が大事なのではなく、大事な音があれば、大事さが軽い音もある。そのバランスを細部に渡って形造るよう、心して音楽に取り組む。成功している細部の表現は、全体を現すことを同時に満たしもする!?
木を見て森を見ず、それは近視眼的。でも、木を見ずして森は見れない・・・?やはり、木あってこその森。森を見ている時も、実は集合した木々を見ているのが事実。音楽も同じ?一曲のようで、実際に接しているのは、その瞬間のその音。木と森のよう!?
音のことがよく分かるためには、その場所が何調なのか(何の音が主音なのか)が分かることが大事な前提なのでしょう。「調性判断」、クラシック音楽を充実して受けとる大事な能力のようです!意識してこれを磨くことで、きっと能力は伸び、音楽がもっと面白くなるでしょう!