う~~ん・・・ 以前自分が勉強した跡を、今ふたたび目にして思うのは、表現のために普通ではない指使いにこだわってみても、結局はうまくいかないよう、今は思えました。表現重視の指使いは失敗の危険が大!? よい指使いを見付けたいものです。(道のりは遠く!)
自分で練習しながら、感動してしまう、ということはありませんか?「自分に厳しくない」というお咎めや、真逆の「自分って上手」なぞという詰まらない自己満足ではなく、純粋に音楽に感動すること・・・あってよいと思いたい。今日《沈める寺》を弾いていたら、感動してしまいました
ドビュッシー《沈める寺(大伽藍)》、昨年から何度も演奏してきましたが、今また感動するとは・・・意外でした。ドビュッシー全曲の内でも特別な位置をしめる(黄金分割!)であろうこの名曲、そういう観点から接してみると、またひときわ違う感動が現れるものなのかもしれません
月末に行うドビュッシー全曲演奏、ここでは、我々に耳馴染みある名曲達《月の光》や《アラベスク》、《子供の領分》などが、作曲者の一生の中で、どういう時に書かれたものか、それを実感する時、よく知るあの曲はちょっと違って聴こえるかもしれない、これお薦めポイントかも!?です
我ながら、そう思うことが少なからずあるのです、今練習しながら。よく知る名曲と思っていた音楽が、全体(一生!)を通すことで、またちょっと違って聴こえる、面白いです。
最近、道を歩きながらふと考えたことがあります。「感動する、これ人生におけるかけがえのない宝」ではないだろうか!?と。「感動できる心」、これ宝を手にする切符!? 音楽、これ宝の山!?
ちょっと下世話(いや、そんなこともない!?)かもしれませんが、お金を手にして、感動したとしたら、それも立派な感動。逆に、お金がなくても感動することがあったとしても、それももちろん感動。両者共に感動。ゆえに「感動すること自体」が宝!?と、考えました
でも、更にちょっと考えましたが、お金を手にした感動は、お金が無くなったら無くなってしまう・・・「無くなりそう、無くなってゆく」という不安も恐ろしいもの!? なので、やはりあまり心がお金を頼りにするのは危険と思いました。