先日ふと、「感情」というと何だか主観的で移ろいやすく不確実なもの・・・ところが「情感」というと、客観的な意味合いがあって、確実さが増している!?ように思えました。充実したクラシック音楽をするためには「情感」に注意したく、思ったのでした。
その楽曲に合った「情感」というものが、そこにあるとしたら、作曲者ではない奏者は、この情感を会得して、自身の感情もそれと合致しているようになれれば、再現演奏芸術としての高い次元での目標達成となれるのかも!?
人間の感情・情感という曖昧なものは、芸術表現を通して、ある確定した形を呈することが出来るとしたら、芸術の存在価値は、そんなところにもある!?と言えるのかも。ある形としてまとまったものに、自身無意識であった言葉にならない思いが浮き彫りになり、それに満足できたら芸術の立派な成功!?
芸術にとって「人間の意識」は重要なキーワードであるよう、最近考えています。チンパンジーや人工知能がいくら達者に作品を制作したとしても、そこに芸術の真の価値は成り立たないような気がする。チンパンジーの書いた絵が芸術作品として売れた!というのは、芸術活動そのものとは無関係の事象!?
「チンパンジーの書いた絵が芸術作品として売れた!」というのは、商業主義が絡んで芸術を冒涜する、望ましくない実験のように今は考えられました!!(怒)
売れたか売れないかで芸術の真の価値は判断できない、そういうことではないでしょうか!?(するとこれ反面教師として価値ありの実験!?)
いずれせよ、「立派な芸術作品!」と思って購入した絵が「チンパンジーが書いたもの」と後で知った購入者の心境は・・・察するに余りありましょうか。「自分が芸術作品と思ったからそれでよい!」では、芸術論は済まされないと思われ・・・やはり不憫な(詐欺の!?)被害者であることは間違いない?
こんな考察を呟いてしまった自分ですが、「芸術の真の価値」をいつも間違わず正しく判断できるか!?というと、そうは全然思えません(笑)専門である音楽においては、よい音楽か、そうでない音楽かを判断する一定の指標は段々と出来てきてはいますが。(目利きになることを目指すべきではあるはず!)