音楽家ピアニスト瀬川玄「ひたすら音楽」

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◆ショパン《ソナタ第2番op.35》第4楽章は「亡者のおしゃべり」!?

2009年02月15日 | ショパン Frederic Chopin
先日の記事には、
ショパン《ピアノソナタ第2番 変ロ短調 op.35》の
第3楽章《葬送行進曲》について
なんだか長い(・・・無駄に?)記事を書いてしまいましたが、
それにちょっと引き続き、
あの、
不可思議な第4楽章「Presto」について
ちょっと考えてみたいと思います。


ショパン自身がこの作品《ソナタop.35》について
言及している文章を今一度見直してみますと・・・


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ここでいま変ロ短調の《ソナタ》を書いているが、
これは君がすでに知っている行進曲がはいるはずだ。
アレグロが一つ、スケルツォ、行進曲、
短いフィナーレ――ぼくの原稿用紙で三ページぐらいだ。
行進曲のあと左手が右手とユニゾンで
おしゃべりをするのだ。

(ノアン、1839年8月8日、友人フォンタナに宛てて、『ショパンの手紙』より)

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ということだそうです。


ここで、第4楽章について注目すべきは
最後の文章、「左手が右手とユニゾン(同音)で
おしゃべりをするのだ」というところ。



この第4楽章については、よく
「墓石の上を吹きすさぶ風のよう」
と例えられる話があります。


「sotto voce e legato」という音量に始まるこの楽章、


・・・・なんということでしょう、実は今、この文章を書きながら
改めてこの楽章の冒頭に記された指示、この
「sotto voce e legato」という言葉を目の当たりにしてみますと、
ここには、
「pp(ピアニシモ)」なぞの、小さな音量で演奏されるような指示は
無い、ということになるのではありませんか!?
もちろん、「sotto voce」というからには、決して
大きな音で奏されることもないのですが。


「sotto voce」とは、言ってみれば「声質」のような、
「音色」またはそれのもたらす「雰囲気」を示唆するものであり、
音量とは直結していないはずです。
もちろん、「f(フォルテ)」である必要もないのですが、
しかし同時に、「pp」である必要もないようです・・・

さらに「sotto voce」について思い出されますのは、
様々なヨーロッパの先生方が同じことをおっしゃったのですが、
「sotto voceとは、
まるで内緒話のような、しかし、
舞台の上で役者が内緒話をするとしたら、
声を潜めながらも、ある程度の声量がなければならず、
決して「静か」というだけではなく、
その逆で、表現としてはとってもパワーのいるもの」
・・・のような話を、何度か聞いた記憶があります。


話が突如逸れてしまいましたが、
上記のショパン自身の言い伝え
●「左手と右手がおしゃべりをするのだ」と、
●「sotto voce」という楽譜に記されたショパンの指示という
具体的な証拠を得て、
想像力たくましく、
前楽章《葬送行進曲》や、この《ソナタ》全体の持つ
「死」というイメージを絡め合わせてゆきますと・・・


この第4楽章は、風ではなく・・・



「亡者のうめき声」



・・・に聞こえてはこないでしょうか・・・?


墓石の下から聞こえてくる亡者のうめき声として
この奇妙な音列(実はその音列の中身は
和声音楽の域を逸脱するものではない見事な
ショパンの「しゃべる」音楽なのですが)を捉えてみますと、
なんと不気味な、恐ろしい光景がこの《ソナタ》を締めくくるか、
ということになりましょうか・・・


そして、
先の《葬送行進曲》の記事に書きましたような経験を経てみて、
この「亡者のうめき声」について更に考えてみますと・・・

もしかするとこの亡者とは、
第1楽章において「死」からの宣戦布告を誇り高く受け入れ、
第2楽章において敗れ、花園の中に夢うつつの如く死へと誘われ、
第3楽章において葬送=葬られた
主人公自身・・・!?

墓穴に埋められ、それは棺おけの中なのか、
それても土の中に直接埋められてしまったのか・・・

もがき、外へ出ようとする様が
この第4楽章の音楽なのだとすると・・・


これは恐ろしい・・・まるで、
生き埋めにされたような心地がしてきませんか・・・



この恐ろしい音楽の終わりは、突如として訪れます。
静まり帰った亡者の声に間髪いれず!!



突如の「ff」の和音に断ち切られるが如く、幕がおりるのです。
まるで、悪夢から飛び起きるかのように!!

それは、
人が悪夢にうなされ、汗だくになって
夜中にガバッと飛び起きるような光景に
ぴたりと当てはまるようにも思われます。



・・・そう、きっと
全ては夢だったのかもしれません。
このソナタの恐ろしい全ての物語は・・・





P.S.
この《ソナタ》が発表された当初(19世紀前半)、
この一見奇怪な四楽章構成による作品は
非常に理解しがたかったようで(それは今日なお!?)、
ショパンを熱烈に支持していたシューマンにさえ、
「四つの暴れん坊を合わせたよう」
と評価されてしまったのですが・・・

「死との対峙」という観点に立って、
この四つの楽章で順だって進められた物語を追ってみますと、
これは「四つの暴れん坊のつぎはぎ」ではなく、
冒頭から一貫するひとつの筋の通ったドラマとして、
すなわち、
死との対峙に覚悟を決め(第1楽章)、
それとの対決、そして中間部の死の甘い誘い、
そして死・・・(第2楽章)、
葬送・・・それは自らが葬られるための!?(第3楽章)
葬られた後の姿・・・墓の中から必死におしゃべり(第4楽章)
そして、全ては夢だったと・・・

このように考えてみると、
この作品をひとつしてまとめて理解することが
できるような気がしますが・・・いかがなものでしょう。



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