音楽家ピアニスト瀬川玄「ひたすら音楽」

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「ベートーヴェン演奏におけるペダリングの注意」 ~ 9月1日(月)のつぶやき

2014年09月02日 | ベートーヴェン Beethoven

ピアノ演奏における「ペダル」の音楽的原理とは、音楽でのレガート(音同士をつなげる)を実現させるために不可欠なもの、と言えましょうか。フォルテピアノ(正式名称!?)を主なる鍵盤楽器として用い出したベートーヴェンのピアノ曲を上手に演奏するためにも、この原理はとても重要なようです


ベートーヴェンのピアノ曲を演奏するにあたって、ペダルの多すぎる演奏は「ショパンみたいに弾かないで!」と警告されることがあります・・・ 古来(チェンバロ時代?)から伝わる「指でのレガート(=運指がとても大事)」を元に、指だけではレガート出来ない所に的確にペダルを使うのが理想?


必要な所にしかペダルを使わない、これをベートーヴェン演奏における基本としながらも、しかしこの作曲家は!ドビュッシーも顔負けの長いペダルで音を濁し、その美しさを要求することもあるので、この両者を混同しないよう注意しなければいけません。


ベートーヴェンの要求する長いペダル!(原典版なら正確に楽譜に「Ped」と記されている)19世紀始めに活躍していたこの人間は、20世紀初頭の印象派音楽を百年先取りしていた!? いや・・・これは後世の人間から見た歴史の逆説?「ベートーヴェンがロマン派・印象派を準備した」が正?

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必要なところにしかペダルを使わない、これ、演奏が理想的にスッキリするための重要なコツのよう、今さらながらに大事に思えて、練習しています。


ペダルを必要なところにしか使わない、これがしっかり身に付いた後に、音響効果としてその場に必要と感じられるペダル(ハーフペダル!1/4ペダル!いやもっと細かく!)を使えるよう意識するべきでしょうか。ペダルの勉強に順序あり!?


ピアノ演奏において、移り行く和音をレガートするために足が自動的にペダルを踏み変えてゆく体の習慣は、ピアノ弾きとして不可欠なもので体得すべきことです。しかしこの習慣が身に付いたなら逆に要注意!?必要ない所でペダルを「踏まない」のもまた大事なペダリングなのです!

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「この予感されたる精神の世界も、表現されるためには此岸(しがん)の現実を必要とするのであります」(E.フィッシャー著『音楽観想』より)・・・的確なペダリング・・・これは理想とする音楽を演奏できるようになるための大事な「現実」のひとつと言えましょうか


「ペダリングは呼吸のようなもの、私はペダルを楽譜に書き込まない」というピアニストさんがいる(いた?)ようですが、今の自分はまだまだ勉強途上段階!?・・・愚直にも、理想を可能とする現実を成功させるべく、ペダルを楽譜に書き込んで勉強します


人間には、指が5本ある。バッハも、モーツァルトも、ベートーヴェンも、ショパンも、リストも、ブラームスも、ラフマニノフも、(以上、ぱっと思い付いたピアノ(鍵盤)の名手でもある作曲家)。片手に5本。この動かしがたい事実を彼等の作品に投影する時、唯一の指使いが見付かる!?


只今ショパンの《前奏曲》の楽譜を前にしながら、ショパンの指が5本あったんだなぁ・・・だから、5連符の後に休符を書いたのかなぁ、と思いが巡り、つぶやきたくなったのです。


この時間(日本時間で22時過ぎ)、普通の家では楽器の音は出せない時間でしょう。こういう時こそ、楽器を離れ、手作業に頼らず、机の上で楽譜に向き合い、楽曲を観察し考える勉強が出来る貴重な時間として、価値が見いだせましょうか。夜は長い・・・勉強が面白くなると寝る時間が(自爆)


今日はエネスコの曲を勉強しながら「sec」という指示が気になり、ペダリングについて考えが深まったかもしれない日でした。これは仏語で「乾いた」という意味、ピアノ演奏においては「ペダルを使わない」という解釈が出来ましょう。「ペダル不使用」を指示するに至った20世紀の記譜法に驚き


楽譜に「sec」という指示を書いたのはエネスコが始まりではなく、ドビュッシーにおいて、それを見付けることが出来ます。「ペダルを使わないこと」も音楽表現のひとつ。ペダリングについての記譜法の発展が認められる興味深い事象と思われます。


というわけで、うちのレッスンでは、ペダルを使わない方がよいと思われる箇所では「sec」と書き込んでみようかしら!?検討中です。


音楽演奏における「感情移入」のポイントを研究中。それは「不協和音」の鳴っている所に、熱くなる心を反映できた時。これに気付くと、人は誰しも立派な音楽家になれるのでは・・・!?


音楽は限られた人々にのみ与えられた垣根のある楽しみではない。音楽の魅力を感じる全ての人々のために、音楽は存在価値を有する。

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音楽の魅力、それは協和音の内に不協和音が「スパイス(刺激?)」のかかったように響く瞬間、心が「胸キュン」したなら、その人は「音楽性がある」と言えるような気がしています。不協和音(Disonanz)の勉強を進めている今日この頃です。

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真理に基づいた手応えが感じられる正義であったら、勇気を持ってこれを実行するのは、生き甲斐ある人生をおくれるコツ!? (感情的な正義は、あまり信じられない・・・) そして、常にその正義が本当に正しいかどうかを批判する精神も不可欠か。


私はクラシック音楽家として、事実に基づいて音楽してゆくことを、ここに宣言いたします。事実・真実が分からないことも、あります。その際は、それを見付けられるよう、精進いたします!


事実・真実に基づいて音楽してゆく姿勢を基本としながらも、音楽の最大の魅力は「感性・感情・心の震え」であるとも、思っています。「感無き音楽に価値無し!?」と!


音楽が我々に感覚的に訴えかけてくる魅力、これを大事としながら、演奏する側・音楽を創る側の人間の仕事は、ただ感情任せに音楽するのではなく、クラシック音楽であったら、知性をもって作品の魅力が表出するよう労力を費やす義務もあるでしょうか?もちろん「感」の大前提の基に!


「感性・知性・技術」という三本柱を、数年前クラシック音楽道場を開講する際に公言していますが、この三本柱には順序があるよう、最近になって定まってきました。「感性」を最重要とし、「知性・技術」がそれを後押しする、これを理想と今は思っています



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