久しぶりに、
美術館を訪ね歩きました。
世田谷美術館
予め訪ねる予定ではなく、偶然ふらりと立ち寄り、
思い立って中へ入って行ったのですが・・・
いやはや、面白かったです!
百年くらい前の絵描きの人々が描いた
「本物」の「生(なま)」の「現物」が
自分の目の前にあるということ・・・
この「ライヴ感」こそが、
人が自分の足で、ある美術館を訪ね、
自分の目で美術作品を見る醍醐味なのでは、と
改めて思いました。
そして、
これはやはりきっと
同じ芸術の一ジャンルである私の携わる「音楽」においても
同じことが言えるのだとも思いました。
すなわち、
録音され、再生機械を通した音楽ではなく、
生身の人間が、その時その場で奏で・歌う音楽の面白さ・ライヴ感。
これにピタリ重なる気がするのです。
P.S.
美術館の本物・現物の作品を見終わって、
館内のショップに並ぶ作品の「ハガキ」や「ポスター」、あるいはさらに、
このパソコン上の記事の画像(当展覧会のチラシ)を見ながら、
ふと、残念にも思ってしまうのです・・・それは例えば、
フィンセント・ファン・ゴッホの描いたこの絵
『郵便配達人 ジョゼフ・ルーラン』の背景の「黄色」が、
どうやっても、印刷機等を通したコピーでは
本物との差異が少なからず出てきてしまうということ・・・
やはりコピーはコピー・・・
「本物ではない」ことを痛感してしまうのでした・・・
もちろん!!コピーとしてでもその作品が
世間に広まり、人々が手軽に見聞できるという意義を
否定することはできません。それはそれで大事なこと。
されど、それが「本物ではない」
「本物はならばもっと」という意識は、
どこかで持っておいて、忘れるべきでない
大切な感覚だとも思うのです。
そう、だからこそ、
ゴッホの作品が数億円という常識はずれの値段で取引されているのは、
この「本物」の持つ力・魅力であると解釈するならば、
そういうことも有得るかと、多少は納得できるかもしれません。
商業主義にのっとらない「美術そのものの価値」として、
それを信じたいです。
♪
美術館を訪ね歩きました。
世田谷美術館
予め訪ねる予定ではなく、偶然ふらりと立ち寄り、
思い立って中へ入って行ったのですが・・・
いやはや、面白かったです!
百年くらい前の絵描きの人々が描いた
「本物」の「生(なま)」の「現物」が
自分の目の前にあるということ・・・
この「ライヴ感」こそが、
人が自分の足で、ある美術館を訪ね、
自分の目で美術作品を見る醍醐味なのでは、と
改めて思いました。
そして、
これはやはりきっと
同じ芸術の一ジャンルである私の携わる「音楽」においても
同じことが言えるのだとも思いました。
すなわち、
録音され、再生機械を通した音楽ではなく、
生身の人間が、その時その場で奏で・歌う音楽の面白さ・ライヴ感。
これにピタリ重なる気がするのです。
P.S.
美術館の本物・現物の作品を見終わって、
館内のショップに並ぶ作品の「ハガキ」や「ポスター」、あるいはさらに、
このパソコン上の記事の画像(当展覧会のチラシ)を見ながら、
ふと、残念にも思ってしまうのです・・・それは例えば、
フィンセント・ファン・ゴッホの描いたこの絵
『郵便配達人 ジョゼフ・ルーラン』の背景の「黄色」が、
どうやっても、印刷機等を通したコピーでは
本物との差異が少なからず出てきてしまうということ・・・
やはりコピーはコピー・・・
「本物ではない」ことを痛感してしまうのでした・・・
もちろん!!コピーとしてでもその作品が
世間に広まり、人々が手軽に見聞できるという意義を
否定することはできません。それはそれで大事なこと。
されど、それが「本物ではない」
「本物はならばもっと」という意識は、
どこかで持っておいて、忘れるべきでない
大切な感覚だとも思うのです。
そう、だからこそ、
ゴッホの作品が数億円という常識はずれの値段で取引されているのは、
この「本物」の持つ力・魅力であると解釈するならば、
そういうことも有得るかと、多少は納得できるかもしれません。
商業主義にのっとらない「美術そのものの価値」として、
それを信じたいです。
♪