無駄な動き・無駄な力み(筋肉の硬直)を無くすことが、上手への道か? 気を付けねばいけないのは「無駄を無くそう」として、実は逆に力んでしまう危険も起こりえること・・・ 本当の理想辿り着くのは、遠くて近い?いや、近くて遠い?道のり・・・
ジストニア(神経回路の故障!?)・・・と思って諦めていた十年程、それを脱却できる道が見え始めたとはいえ、答えはそこにありそう、でも実践の成功は、そこにあったり、無かったり・・・ 「近くて遠い道のり」を実感する今日この頃です・・・
「こうすれば弾ける!?」と、悪所の要因(無駄な筋肉の硬直)を見付けた(ような気がする?)時は、ゴールは「遠くて近い」と感じたものでした! 長年の苦労が、ほんの一時の内に報われるなんて! しかし、そこから解き放たれるのは「近そうで遠い道」なのかも・・・?はぁ
「無駄な動きを無くす」からといって、必要な動きまで停滞してしまっては、うまくいかないでしょう・・・ 必要なもの、不必要なものを、的確に見定めてゆければ
杓子定規に「これは必要・不必要」と断定しなくてもよいでしょうか。世の中には「必要ではないけれど、あっても邪魔ではない」というものだったら、あってもよしてしてよいでしょうか?(だから私の部屋は片付かない!?自爆、あまり酷いと「邪魔」の域となりましょう・・・)
そこまでストイックに「これは必要ない」と切り捨てられるようなタイプの人間では、私はありません・・・良かれ悪かれ(笑)
??ピアノ演奏において、5本ある指のうち、親指は支えの役割のあまり担わせないで、「方向指示」のような役割で活躍する方がよい!? 生えている方向が他の4本とは明らかに違うのだから、特有の役割を課すべき!?と、ふと思いました
親指以外の4本がピアノの鍵盤に向かうとき、それぞれの間接はその稼働範囲の正規の方向で働いていることでしょう。それに対して親指は・・・基本的には「付け根から」しか動いていないではありませんか!? この特性をよく理解し、親指を有効に自由に使えたら・・・
「無駄な動きを無くす」ことを意識してきましたが、今夜になってからは、「必要な動きを適当に使う」ことに興味がわいてきました。必要な動きがちゃんと出来ることで、「無駄を無くそう」と意識することなく、無駄は無くなるかもしれない!?そうなったら・・・
ここ最近で思うことは、「無駄を無くそう、余分な筋肉の硬直を抜こう」としても、それはなかなか難しいということ・・・ 「脱力せねば・脱力しよう」という意識は、すでに「せぬば・しよう」という言葉の内に「硬直」の要素をはらんでいることは否定できなさそうです・・・なので、
「脱力しよう」と目標を掲げるのではなく、「どうやったら適当な脱力が出来る状態になるか?」を求める心掛けが、成功への道・・・?(となればいいです!) すなわち、今夜思う処では「適当な筋肉を使う」ということでした
「適当な筋肉を使う」ことによって、今日は自分がピアノという楽器で出すことの出来る音量が大幅にupしたような日でした。重さ(腕の重みや体重)を主として、そこに有効な筋肉を使い合わせると・・・今まで自分では出したことのなかったような轟音(ffff!?)がこの手から現れたのです!
「腕の筋肉では大した音量は出ない」という持論は変わらずですが、もちろん、体重を有効に楽器の音量に活かすことを主に、しかし有効な筋肉をここに併用することは、悪いことでは無いような気がしてきました。それどころか、なんとかに金棒!?パワーup!?
では、どこの筋肉を使うと楽器が轟音を発するようになるか!?というと・・・まだ内緒にしておきます(笑) また、これは筋肉の問題だけでなく、基本的な鍵盤と手とのコンタクトがあってこそ、金切り声のような汚い音ではない、美しい大音量が可能となるようなので
「音楽は肉で奏でるものではない!」という批判を聞いたことがありますが・・・しかし「肉」無くしては、楽器を奏でられないのは事実でしょう。肉も大事。ただ、肉(テクニック)を主眼としただけのような演奏は・・・好ましいとは思えません。心も、知性も要るでしょう。そして肉も!