久し振りにドビュッシーを弾いていたら・・・後期の作《前奏曲集2巻》の最後の2曲《交代する3度》と《花火》には、ドビュッシー最晩年の次へと続く《練習曲》的な要素が満載!?と思われました。《前奏曲》を書きながら、頭の中は《練習曲》みたいな状態!?移行!?
《前奏曲「交代する3度」》を弾いていると、《3度のための練習曲》はもちろん、《8度のため》中間部の交代する手の動きや、《反復音のため》における不気味な不協和音の反復など、類似箇所が散見される気がしてきました。
ドビュッシーの《前奏曲「花火」》に現れる多彩なアルペジオは、《練習曲「8本の指のため」》にリンクする感あり!? ドビュッシーにとっては「花火が技術となったのか」「技術が花火となったのか」、技術と音楽性が不可分に一致した境地がここにある!?
すると、ドビュッシー《花火》の冒頭の運指は「(左→)432(右→)432」でなければならない!?ような気がしてきました・・・ これは《8本の指のための練習曲》に合い通じるドビュッシーのピアノ演奏芸術における美学を反映している事象なのかもしれない!?
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ドビュッシー《花火》の冒頭は、右手に大きな跳躍があるため、これを成功させるべく内声の連符を「(左→)431(右→)4(左→)23」のようにアレンジ出来るのですが、よく見ると一小節毎にスラーがある、ゆえに焦って跳躍をする必要はなく、連符は親指を使わない運指の美学を尊重すべき!?
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作者直々に教えを受けたピアニストM.ロン曰く《8本の指のための練習曲》にて「親指を使っても大丈夫、巧く弾けていれば作者はそれを注意しなかった」とのことですが、今思うと、やはりドビュッシー的な運指美学を尊重し、親指無しを徹底してみたい気になってきました