やっぱり、
クラシック音楽においては
「コントラプンクト(対位法)」というキーワードが
大きなものを言うような気がしました。
コントラプンクト(対位法)とは、
ざっくりと言ってみると、
「同時進行で複数の旋律が動く」という音楽の手法。
ゆえに、
「複数」ということは、
同時に複数の音を鳴らすことのできる我々鍵盤楽器奏者においては、
バッハ《平均律クラヴィア曲集》の「フーガ」や、
その前段階の《インヴェンション》に代表される
左右の手がばらばらに動く曲を弾きこなす訓練に四苦八苦したり、
多少なりとも、コントラプンクトの音楽に触れる機会があるといえましょうか。
それに比べると、
単旋律の楽器を扱う人々(あるいは歌の人)にとっては
「コントラプンクト」とはあまり関係のないことなのかしら、と
胆略的には思えるかもしれませんが・・・
今、改めて考えてみて、
いやいや、単旋律の楽器においても、
コントラプンクトは決して無関係なものではないと考えられました。
それは室内楽や、合奏において。
単旋律楽器であるからこそ、
他の楽器とのアンサンブルを通して
音楽を創ってゆく機会が多いものでしょう。
(その点、ピアノ弾きは孤独で、アンサンブルに不慣れな奏者がいることも残念ながら事実かもしれません・・・)
(そういえば・・・考えてみれば、西洋音楽の発展の大きな契機となったのはグレゴリア聖歌に代表される「複数の声の重なり」あってのこと・・・鍵盤楽器は、歴史的に見れば後輩ですよね・・・謙虚にあらねば!?)
アンサンブルをする際、
それが充実した、良いものとなるためには、
他の人たちの音・空気・間合い・目線など、
気にかける心掛けが不可欠です。
(自分のことだけ考えていては、良いアンサンブルとはいえないでしょう)
これ、
この感覚・技術を「コントラプンクト的」といっても
十二分によいのではないだろうか!?
自分の楽器・自分の役割を果たしつつ、
同時に、他の仲間達のことも視野に(聴野に!?)入れる。
どんな音楽家・奏者にとっても、
「コントラプンクト的感覚」とは、
良い音楽家にとっての不可欠なものと言ってもよいのではないでしょうか。
♪
クラシック音楽においては
「コントラプンクト(対位法)」というキーワードが
大きなものを言うような気がしました。
コントラプンクト(対位法)とは、
ざっくりと言ってみると、
「同時進行で複数の旋律が動く」という音楽の手法。
ゆえに、
「複数」ということは、
同時に複数の音を鳴らすことのできる我々鍵盤楽器奏者においては、
バッハ《平均律クラヴィア曲集》の「フーガ」や、
その前段階の《インヴェンション》に代表される
左右の手がばらばらに動く曲を弾きこなす訓練に四苦八苦したり、
多少なりとも、コントラプンクトの音楽に触れる機会があるといえましょうか。
それに比べると、
単旋律の楽器を扱う人々(あるいは歌の人)にとっては
「コントラプンクト」とはあまり関係のないことなのかしら、と
胆略的には思えるかもしれませんが・・・
今、改めて考えてみて、
いやいや、単旋律の楽器においても、
コントラプンクトは決して無関係なものではないと考えられました。
それは室内楽や、合奏において。
単旋律楽器であるからこそ、
他の楽器とのアンサンブルを通して
音楽を創ってゆく機会が多いものでしょう。
(その点、ピアノ弾きは孤独で、アンサンブルに不慣れな奏者がいることも残念ながら事実かもしれません・・・)
(そういえば・・・考えてみれば、西洋音楽の発展の大きな契機となったのはグレゴリア聖歌に代表される「複数の声の重なり」あってのこと・・・鍵盤楽器は、歴史的に見れば後輩ですよね・・・謙虚にあらねば!?)
アンサンブルをする際、
それが充実した、良いものとなるためには、
他の人たちの音・空気・間合い・目線など、
気にかける心掛けが不可欠です。
(自分のことだけ考えていては、良いアンサンブルとはいえないでしょう)
これ、
この感覚・技術を「コントラプンクト的」といっても
十二分によいのではないだろうか!?
自分の楽器・自分の役割を果たしつつ、
同時に、他の仲間達のことも視野に(聴野に!?)入れる。
どんな音楽家・奏者にとっても、
「コントラプンクト的感覚」とは、
良い音楽家にとっての不可欠なものと言ってもよいのではないでしょうか。
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