詩であれ、弁論であれ、どれほど輝かしい色彩で描かれていようとも、やはり、息抜きのできる部分がなければ、抑制された部分がなければ、多様性がなければ、それが与える喜びは長続きしない。(クラッスス『弁論家について』第3巻100)
残酷なことに有益なことはない。なぜなら、われわれの導き手とせねばならない人間の本性に対してもっとも敵対するのが残酷さであるからである。(『義務について』第3巻46-47)
心を喜ばせ、心労を休めることを求めているとしよう。それなら、哲学者の熱意に匹敵しうるものなどありえようか。彼らは善き人生、幸福な人生をめざし、これに有効なものをつねに探し求めているのだから。(『義務について』第2巻6)
・・・極論のように見えますが、一理あるのかも twitter.com/cicerobot_jp/s…
技術というものは用いなくとも、知識そのものによって保持することができるが、徳というものはその活用にかかっている。そしてその最大の活用とは国の指導であり、また、人々が片隅で声高に説いていること自体を、口先ではなく、実力によって達成することである。(『国家について』1.2)
(人間の共同体と社会に関して自然の定める)第一の原理は、あまねく人類全体で構成する社会に認められるものである。その絆は理性と原語であり、これらは教育、学習、意思伝達、議論、判断などを通じて人間同士を融和させ、自然な社会的結合を作り出す。(『義務について』第1巻50)
昔の書き物を繙き、熱心にまた大いに味読反芻するならば、現代の慣用語を用いるにしても、選び抜かれた言葉を用いる能力を用いる能力が身につくはずである。(クラッスス『弁論家について』第3巻39)
口演の効果を最大限に高め、口演を成功に導くのに最大の役割を果たすのは、疑いもなく、声であってわれわれは、まず声に恵まれることを願うべきであり、次には、与えられたその声がどのようなものであれ、それを保ち続けられるよう配慮しなければならない。(クラッスス『弁論家について』3.224)
互いに批判することなしには議論することは不可能であり、他方で怒りや強情にとらわれていては正しく議論することができない。(トルクワートゥス『善と悪の究極について』第1巻28)
哲学の究極の目的は、いかにして幸福に生きるかということに尽き、数多くの人間がその一事を追い求めてこの研究に携わってきた。(キケロ『善と悪の究極について』第2巻86)