音楽家ピアニスト瀬川玄「ひたすら音楽」

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■室内楽・愛好家の人生 ~ 吉田秀和著『現代の演奏』より

2011年10月22日 | 吉田秀和
吉田秀和著 『現代の演奏』新潮社より抜粋


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私たちがこんにち室内楽というものを、
交響的作品よりも高貴な種目と感じているとすれば、
それは、もちろん、
前者が貴族たちが自分で演奏した音楽であり、
後者はお抱えの職人たちにやらしたという区別からだけ
生まれているのではない。

けれども、
愛好家、つまり非職業人が演奏するということには、
何かの意味があったはずである。

この意味は、
市民社会になっても失われなかった。
少なくとも19世紀では、
そうであった。

あの気むずかしいベートーヴェンでさえ、
後期のピアノ・ソナタを、サロンの婦人たちがひくのを、
不思議ともなんとも思っていなかった。

また、ブラームスの室内楽は、
もっぱら彼の友人たちが楽しむために書かれた。
そのなかには、
ブラームス自身やクララやヨアヒムといった
当時の飛びきり上等の職業的音楽かもいたが、
医者や法律家や、そうして富裕な市民の夫人たちもいた。

こういう人々が室内楽を演奏したことは、
貴族の場合でも、市民の場合でも、
彼らが社会的身分とは別の世界のなかに自分を置くことができることを、
他人に、そうしてことに自分に、
証明してみせたかったからではないだろうか。

ということは、
芸術が暇つぶしであるというよりも、もっと積極的な、
人生のなかでの人生、
世界のなかでの世界
とでも言ったものを作り出す力があることを、
彼らが信じていたからではないだろうか。


〈私は確かに医者である。
そのことを、私は恥じてはいない。
けれども、私はそれだけではない。
それを私はみんなに知ってもらう必要はない。
しかし私は自分の妻とごく親しい友人たちに、
自分の秘密を聞いておいてもらおうと思う。〉

こういう心理は、もしそれをロマンティックとよぶならば、
ロマンティック時代以前にすでにあったロマンティシズムである、と
言えないだろうか。

室内楽が交響的作品と区別されるのは、
社会的にそうして個人の心理として、
ここにその根拠がある。

交響的作品は、公共的性格のものである。
室内楽は非公開ではあるが、しかし、
選ばれた聴衆が必要な芸術である。

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