前の記事に引続きフルトヴェングラーの文章をご紹介したく思います。
バッハの音楽の特徴・性格、そして
ベートーヴェンがクラシック音楽の歴史の駒を進めた様が
古代ギリシアの演劇の発展と照らし合わされ、
「文化の発展の様相」、そして
その「存在意義」が説明されているような面白い文章です。
以下、
フルトヴェングラー著『音楽を語る』より
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さて、ベートーヴェンではじめて、音楽は、
自然界で《悲劇的結末》の形で演じられるものを
表現する能力をあたえられることになるのです。
しかも、この悲劇的な破局は、
自然を表現するひとつの別の形であって、
ゆっくりと進展してゆくものと同じように自然に従ったものであり、
自然的・有機的なものです。
それまでの音楽の性格は叙事的だったのですが、今度は、
音楽は、ドラマになる資格をしだいにもつようになってくるのです。
ギリシャでもまた、ホーマーは、悲劇作者よりも以前にあらわれています。
これは、偶然ではないのです。
偉大なエポス(叙事詩)は、ドラマよりも飾り気のない状態に適しているのです。
ドラマは、運命と人物をとり出して、それだけから効果を出すという
可能性をすでに仮定しています。
記述は、現実と出会う最初の方法ですから、
エポスは、ドラマよりも先にくるわけです。
この現実が記述ということで征服されてはじめて、
芸術は、人に自然に感動をあたえるために必要な、
ある程度の抽象化をおこなうことができるのです。
そして、自分の姿がもはや自分とは関係がなくなって、独自の生活をし、
独自の運命の道を歩むように、芸術家は、この自分の姿に対立して
抽象化するという態度をとることができるのです。
実際、バッハでは、
気分に即した《悲劇的な》効果が得られています。
ーー受難曲を思い出してみさえすればけっこうです。
それにもかかわらず、バッハは、本質的に叙事的です。
つまり、ひとつの主題(テーマ)は、
バッハの場合には、不変な存在をあらわしていて、
展開のときでも、運命を「体験する」という意味では変化しません。
決定的なことは、
主題が曲の「内部」でーーシェークスピアの人物のようにーー
発展を体験するということで、
これは、ハイドンではじめて音楽にもちこまれたのであり、
ベートーヴェンで完全に効果的なものになったことなのです。
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バッハの音楽の特徴・性格、そして
ベートーヴェンがクラシック音楽の歴史の駒を進めた様が
古代ギリシアの演劇の発展と照らし合わされ、
「文化の発展の様相」、そして
その「存在意義」が説明されているような面白い文章です。
以下、
フルトヴェングラー著『音楽を語る』より
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さて、ベートーヴェンではじめて、音楽は、
自然界で《悲劇的結末》の形で演じられるものを
表現する能力をあたえられることになるのです。
しかも、この悲劇的な破局は、
自然を表現するひとつの別の形であって、
ゆっくりと進展してゆくものと同じように自然に従ったものであり、
自然的・有機的なものです。
それまでの音楽の性格は叙事的だったのですが、今度は、
音楽は、ドラマになる資格をしだいにもつようになってくるのです。
ギリシャでもまた、ホーマーは、悲劇作者よりも以前にあらわれています。
これは、偶然ではないのです。
偉大なエポス(叙事詩)は、ドラマよりも飾り気のない状態に適しているのです。
ドラマは、運命と人物をとり出して、それだけから効果を出すという
可能性をすでに仮定しています。
記述は、現実と出会う最初の方法ですから、
エポスは、ドラマよりも先にくるわけです。
この現実が記述ということで征服されてはじめて、
芸術は、人に自然に感動をあたえるために必要な、
ある程度の抽象化をおこなうことができるのです。
そして、自分の姿がもはや自分とは関係がなくなって、独自の生活をし、
独自の運命の道を歩むように、芸術家は、この自分の姿に対立して
抽象化するという態度をとることができるのです。
実際、バッハでは、
気分に即した《悲劇的な》効果が得られています。
ーー受難曲を思い出してみさえすればけっこうです。
それにもかかわらず、バッハは、本質的に叙事的です。
つまり、ひとつの主題(テーマ)は、
バッハの場合には、不変な存在をあらわしていて、
展開のときでも、運命を「体験する」という意味では変化しません。
決定的なことは、
主題が曲の「内部」でーーシェークスピアの人物のようにーー
発展を体験するということで、
これは、ハイドンではじめて音楽にもちこまれたのであり、
ベートーヴェンで完全に効果的なものになったことなのです。
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