バッハとベートーヴェンの違い、そしてつながり、
あいだにいるハイドンという存在を通して、
クラシック音楽の在り方が「近代」という言葉で
大きく舵を切る様が分かるような、面白い文章をご紹介したく思います。
以下、フルトヴェングラー著『音楽を語る』より
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
さてしかし、ハイドンでは、
バッハ、あるいはさらにもっと巧妙なモーツァルトの場合のように、
その時代の大きな宝である「全音楽的な統一」といったものが、
もはやいわば自然に生まれているのではありません。
ハイドンはそういうものを獲得しなければならなかった
最初の作曲家なのです。
まったく実際のところ、
ハイドンで、近代の音楽ははじまっているのです。
ハイドン、そしてその後さらになおベートーヴェンで、
バッハの《存在》、
モーツァルトの《変化》というものが、
《生成》というものになっています。
バッハでは、作業が中絶していて、
ハイドンとベートーヴェンでそれが完結しているわけです。
こうして、音楽的な論理と音楽的変化、それに
精神的な論理と精神的変化との一致が、同時に時代の問題となってきます。
現在、バッハをベートーヴェンと対立させて悦に入ったり、
ベートーヴェンをロマン主義者、主観主義者だと主張し、
したがってまた自然の秩序の破壊者で、われわれが
征服すべきものだと唱える人たちが見受けられます。
こうした意見は、深い誤解によるものです。
そして、この誤解が、ベートーヴェンの作品のふつうに
おこなわれている演奏にもとづくことはいうまでもありません。
バッハをベートーヴェンに対立させるーーーこのことは、私には、
獅子とカシワの木を、あるいは抽象的にいって、
植物的存在と動物的存在を対立させて
悦に入ろうとしているように思えるのです。
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追記;
「ベートーヴェンが第10交響曲を完成させていたら
ベートーヴェンは《ロマン派の作曲家》と呼ばれたかもしれない」
という言葉があるようですが、
これはこれでなんとなく然り、
百花繚乱!?のロマン派の音楽の種を蒔いたのは
ベートーヴェンこの人と言ってよいと思います。
そうかといって、
ベートーヴェン自身が「ロマン主義者」であると
言い切ってしまうのは間違いであることを、
フルトヴェングラーは批判しているよう思われました。
♪
あいだにいるハイドンという存在を通して、
クラシック音楽の在り方が「近代」という言葉で
大きく舵を切る様が分かるような、面白い文章をご紹介したく思います。
以下、フルトヴェングラー著『音楽を語る』より
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さてしかし、ハイドンでは、
バッハ、あるいはさらにもっと巧妙なモーツァルトの場合のように、
その時代の大きな宝である「全音楽的な統一」といったものが、
もはやいわば自然に生まれているのではありません。
ハイドンはそういうものを獲得しなければならなかった
最初の作曲家なのです。
まったく実際のところ、
ハイドンで、近代の音楽ははじまっているのです。
ハイドン、そしてその後さらになおベートーヴェンで、
バッハの《存在》、
モーツァルトの《変化》というものが、
《生成》というものになっています。
バッハでは、作業が中絶していて、
ハイドンとベートーヴェンでそれが完結しているわけです。
こうして、音楽的な論理と音楽的変化、それに
精神的な論理と精神的変化との一致が、同時に時代の問題となってきます。
現在、バッハをベートーヴェンと対立させて悦に入ったり、
ベートーヴェンをロマン主義者、主観主義者だと主張し、
したがってまた自然の秩序の破壊者で、われわれが
征服すべきものだと唱える人たちが見受けられます。
こうした意見は、深い誤解によるものです。
そして、この誤解が、ベートーヴェンの作品のふつうに
おこなわれている演奏にもとづくことはいうまでもありません。
バッハをベートーヴェンに対立させるーーーこのことは、私には、
獅子とカシワの木を、あるいは抽象的にいって、
植物的存在と動物的存在を対立させて
悦に入ろうとしているように思えるのです。
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追記;
「ベートーヴェンが第10交響曲を完成させていたら
ベートーヴェンは《ロマン派の作曲家》と呼ばれたかもしれない」
という言葉があるようですが、
これはこれでなんとなく然り、
百花繚乱!?のロマン派の音楽の種を蒔いたのは
ベートーヴェンこの人と言ってよいと思います。
そうかといって、
ベートーヴェン自身が「ロマン主義者」であると
言い切ってしまうのは間違いであることを、
フルトヴェングラーは批判しているよう思われました。
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