今日の我々の受けてきた(いる)音楽教育においては、
ピアノ演奏にて、
「ペダルの濁り」は「良くない事」、
とされ、指導がなされていましょう。
これはもちろん、
ピアノを弾き始めた初歩・初級(あるいはそれ以上のレヴェルでも)にて
ペダルの扱いが習得できていないなら、
これを注意することは、とても大切なことです。
より正確に言うならば、
ペダルの踏み替えが成功せず、
異なるハーモニーが入り混じって
その楽曲の求めていない不協和音が鳴ってしまうのは、
「良くないペダルの濁り」として、
大いに修正が必要なところと言えましょう。
さて、ところが・・・
クラシック音楽の長い歴史においては、
(特にベートーヴェン以降の作品に時々見られるのは)
ペダルの絶妙な使用により、
作曲者によって意図された「不協和音」の「魅力」というものが
ところどころに見受けられる事実を、
クラシック音楽に携わる我々は
見過ごしてはいけない、と、ふと、強く思ったのです。
例えば有名なのは、ベートーヴェン作曲の
《ピアノソナタ 第21番 ハ長調 op.53“ワルトシュタイン"》の終楽章。
「pp(ピアニシモ)」の静かな音量で、
左右の手が交差しながら、
ハ長調C-Durの主和音「ドミソ」の和音と、属7和音「ソシレファ」が入り混じり、
・・・朝靄(あさもや)のむこうにうっすらと光を放つ太陽・・・
のような印象を我々にもたらしてくれる
至極のピアノ音楽芸術作品が存在します。
今日では入手がたやすくなった原典版には、
ベートーヴェンの意図したペダル表記が確かに記されており、
これに注意を払い、
この天才作曲(天才的なピアニストでもある)ベートーヴェンの
素晴らしい音楽のイメージを、
奏者が(あるいは聴く人も!?)楽譜の指示を汲み取ることで
彼の天才の片鱗に触れることが出来るとするならば、
こんなに面白いことはなかなかないほどの充実感を
きっと得られることでしょう。
《ワルトシュタイン》のペダルは、まさに
至極の音楽を知り、そして
イマジネーションに富んだ「天才」の産物
だともいえましょうか、このデリケートな不協和音の美しさ!!
他にも、
作曲者の指示による「ペダルの濁り」が要求されている例は、
沢山ありそうです。
先日、レッスンにいらして下さった方とご一緒したのは、
メンデルスゾーン作曲《無言歌 op.19-1“狩の歌”》でも、
例えば曲の終わりにて、
長い長いペダルの指示による「ハーモニーの濁り」が、
勇ましく狩に向かう人々の姿が遠い彼方へ去っていったような
素敵なイマジネーションを、
楽譜に記された「長いペダル」がもたらしてくれるよう
感動的に感じられたりもしました。
ドビュッシーの「印象派」と呼ばれる音楽においても、
低音部の長い音価に注意を払い、
それを意識しながら、上声部の和音の濁りが、まさに
「印象派」
と呼ばれる芸術の雰囲気をかもし出すのに成功する
大きな秘訣だったりもします。
「ペダルの濁り」
さらにもうひとつ考えが巡りますのは、
「今の時代の楽器と、かつての時代の楽器では響きが違う」と巷でよく言われるのは、
もしかすると不協和音に恐怖感を感じる人々の「言い訳」に過ぎないかもしれません・・・
だって少なくとも、
ロマン派と呼ばれる人々の使用していた19世紀のピアノは、
今日のグランドピアノに決して遠くは無い音響を有していたのです、
(当時の楽器を、先入観無く素直に聴いてみれば・弾いてみれば分かるはずです)
よってペダルを長く踏めば、
それだけ「不協和音」になるのです。
ゆえに、
19世紀以降のピアノ演奏に長けた作曲者達が記した「長いペダル」というのは、
「不協和音の美しさ」を意図した「芸術性」である、と
真面目に考えるべきなのではないでしょうか。
もちろん、ペダルの踏み加減・ハーフ・ペダルを駆使し、
理想的な美しい不協和音を演奏するよう心がけることは大切でしょうが。
(この「ハーフ・ペダルの使用」が、なかなか難しいところであります!!)
更なる音楽芸術を目指す人であれば、
ピアノ教育初歩の段階で教え込まれた
「音が濁ってはダメ」という「植え込まれた恐怖感」を
勇気をもって一歩越えて、
大いなる魅力ある「不協和音の世界」に足を踏み入れることは、
芸術・クラシック音楽のピアノをやっていく上で
とっても面白く、大切なことだと思われます。
♪
ピアノ演奏にて、
「ペダルの濁り」は「良くない事」、
とされ、指導がなされていましょう。
これはもちろん、
ピアノを弾き始めた初歩・初級(あるいはそれ以上のレヴェルでも)にて
ペダルの扱いが習得できていないなら、
これを注意することは、とても大切なことです。
より正確に言うならば、
ペダルの踏み替えが成功せず、
異なるハーモニーが入り混じって
その楽曲の求めていない不協和音が鳴ってしまうのは、
「良くないペダルの濁り」として、
大いに修正が必要なところと言えましょう。
さて、ところが・・・
クラシック音楽の長い歴史においては、
(特にベートーヴェン以降の作品に時々見られるのは)
ペダルの絶妙な使用により、
作曲者によって意図された「不協和音」の「魅力」というものが
ところどころに見受けられる事実を、
クラシック音楽に携わる我々は
見過ごしてはいけない、と、ふと、強く思ったのです。
例えば有名なのは、ベートーヴェン作曲の
《ピアノソナタ 第21番 ハ長調 op.53“ワルトシュタイン"》の終楽章。
「pp(ピアニシモ)」の静かな音量で、
左右の手が交差しながら、
ハ長調C-Durの主和音「ドミソ」の和音と、属7和音「ソシレファ」が入り混じり、
・・・朝靄(あさもや)のむこうにうっすらと光を放つ太陽・・・
のような印象を我々にもたらしてくれる
至極のピアノ音楽芸術作品が存在します。
今日では入手がたやすくなった原典版には、
ベートーヴェンの意図したペダル表記が確かに記されており、
これに注意を払い、
この天才作曲(天才的なピアニストでもある)ベートーヴェンの
素晴らしい音楽のイメージを、
奏者が(あるいは聴く人も!?)楽譜の指示を汲み取ることで
彼の天才の片鱗に触れることが出来るとするならば、
こんなに面白いことはなかなかないほどの充実感を
きっと得られることでしょう。
《ワルトシュタイン》のペダルは、まさに
至極の音楽を知り、そして
イマジネーションに富んだ「天才」の産物
だともいえましょうか、このデリケートな不協和音の美しさ!!
他にも、
作曲者の指示による「ペダルの濁り」が要求されている例は、
沢山ありそうです。
先日、レッスンにいらして下さった方とご一緒したのは、
メンデルスゾーン作曲《無言歌 op.19-1“狩の歌”》でも、
例えば曲の終わりにて、
長い長いペダルの指示による「ハーモニーの濁り」が、
勇ましく狩に向かう人々の姿が遠い彼方へ去っていったような
素敵なイマジネーションを、
楽譜に記された「長いペダル」がもたらしてくれるよう
感動的に感じられたりもしました。
ドビュッシーの「印象派」と呼ばれる音楽においても、
低音部の長い音価に注意を払い、
それを意識しながら、上声部の和音の濁りが、まさに
「印象派」
と呼ばれる芸術の雰囲気をかもし出すのに成功する
大きな秘訣だったりもします。
「ペダルの濁り」
さらにもうひとつ考えが巡りますのは、
「今の時代の楽器と、かつての時代の楽器では響きが違う」と巷でよく言われるのは、
もしかすると不協和音に恐怖感を感じる人々の「言い訳」に過ぎないかもしれません・・・
だって少なくとも、
ロマン派と呼ばれる人々の使用していた19世紀のピアノは、
今日のグランドピアノに決して遠くは無い音響を有していたのです、
(当時の楽器を、先入観無く素直に聴いてみれば・弾いてみれば分かるはずです)
よってペダルを長く踏めば、
それだけ「不協和音」になるのです。
ゆえに、
19世紀以降のピアノ演奏に長けた作曲者達が記した「長いペダル」というのは、
「不協和音の美しさ」を意図した「芸術性」である、と
真面目に考えるべきなのではないでしょうか。
もちろん、ペダルの踏み加減・ハーフ・ペダルを駆使し、
理想的な美しい不協和音を演奏するよう心がけることは大切でしょうが。
(この「ハーフ・ペダルの使用」が、なかなか難しいところであります!!)
更なる音楽芸術を目指す人であれば、
ピアノ教育初歩の段階で教え込まれた
「音が濁ってはダメ」という「植え込まれた恐怖感」を
勇気をもって一歩越えて、
大いなる魅力ある「不協和音の世界」に足を踏み入れることは、
芸術・クラシック音楽のピアノをやっていく上で
とっても面白く、大切なことだと思われます。
♪