音楽家ピアニスト瀬川玄「ひたすら音楽」

♪クラシック音楽の伝統を受け継ぐ真の音楽芸術家を目指して活動しています♪ 「YouTubeクラシック音楽道場」も更新中♪

■「楽譜の読み方」「余計なものを削る」「名人とは」 ~ 吉田秀和著『現代の演奏』より抜粋

2011年09月04日 | 吉田秀和

吉田秀和著 『現代の演奏』新潮社より抜粋


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

演奏家の独自の楽譜の読み方をすることと、
傑作を〈原形に戻す〉ことと、
この二つは矛盾することもよくあるけれども、さればといって
およそ〈読み方〉をすべて捨てれば、
原形が戻ってくるというものではないのである。

そうではなくて、私たちは、
ますます深い読み方への道をたどってゆくほかに
〈原形〉に達する道はないのだ。


・・・中略・・・


それにしても〈余計な〉解釈は
どうしてでも、削ってゆかなければならない。

名人というのは、
その自分の余計なものを見せつける人種とは、
別の人間をさすはずだ。

逆にいえば、楽譜をみせれば、人は、
ほっておいても余計なこと、つまり自己流をやる。

名人とは、それを一つ一つ削り落す作業を
おしまない人といっても良いのかもしれない。

ルービンシュタインも、いっていた。

〈人は年をとればとるほど、
モーツァルトがすばらしく見えてくる。
モーツァルトには、全く余計なものがない。
すべてが本質であって、
しかもそれだけで十分な生きた音楽なのである〉と。

こういうことをいう人が、
自分の演奏から余計なものを払いのけるのに、
非常な苦心をしていないはずはないだろう。
音楽に仕えるために、
彼はピアノをひくのではないだろうか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


楽譜から音楽を見出すこと、その際、
「余計なもの」とは何か、その逆に
「余計ではないもの」とは何か!?が分かるとすれば、
音楽をするに当たっての「名人への道」が拓ける、
ということになりましょうか!?

あるいは、
「余計ではないもの」とは何かを知るためにも、
「余計なもの」を削ってゆくことで、残ったものが
「余計ではないもの」と気付けるのかもしれず!?

決して簡単な探求の道ではなさそうでしょうか・・・

がんばりたいものです!!













コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 9月3日(土)のつぶやき(なで... | トップ | ■拳闘場!?ルービンシュタイ... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。