吉田秀和著 『現代の演奏』新潮社より抜粋
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演奏家の独自の楽譜の読み方をすることと、
傑作を〈原形に戻す〉ことと、
この二つは矛盾することもよくあるけれども、さればといって
およそ〈読み方〉をすべて捨てれば、
原形が戻ってくるというものではないのである。
そうではなくて、私たちは、
ますます深い読み方への道をたどってゆくほかに
〈原形〉に達する道はないのだ。
・・・中略・・・
それにしても〈余計な〉解釈は
どうしてでも、削ってゆかなければならない。
名人というのは、
その自分の余計なものを見せつける人種とは、
別の人間をさすはずだ。
逆にいえば、楽譜をみせれば、人は、
ほっておいても余計なこと、つまり自己流をやる。
名人とは、それを一つ一つ削り落す作業を
おしまない人といっても良いのかもしれない。
ルービンシュタインも、いっていた。
〈人は年をとればとるほど、
モーツァルトがすばらしく見えてくる。
モーツァルトには、全く余計なものがない。
すべてが本質であって、
しかもそれだけで十分な生きた音楽なのである〉と。
こういうことをいう人が、
自分の演奏から余計なものを払いのけるのに、
非常な苦心をしていないはずはないだろう。
音楽に仕えるために、
彼はピアノをひくのではないだろうか。
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楽譜から音楽を見出すこと、その際、
「余計なもの」とは何か、その逆に
「余計ではないもの」とは何か!?が分かるとすれば、
音楽をするに当たっての「名人への道」が拓ける、
ということになりましょうか!?
あるいは、
「余計ではないもの」とは何かを知るためにも、
「余計なもの」を削ってゆくことで、残ったものが
「余計ではないもの」と気付けるのかもしれず!?
決して簡単な探求の道ではなさそうでしょうか・・・
がんばりたいものです!!
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