リスト作曲《波を渡るパオラの聖フランチェスコ》
曲の始まりから、楽譜で見開き1ページの部分は、
左手の低音のトレモロに伴奏され、
右手で朗々と歌われるメロディーからは、
「大海原」と「聖人フランチェスコ」の姿があらわれているよう
想像することはし易いのではないでしょうか。
作曲者リスト自身が楽譜に掲載した標題文の
以下の部分と音楽がつながりましょうか。
あざける水夫たちの無作法な態度にいささかも取り乱すことなく、
またつねに彼を支えてきた神霊に励まされて、
聖人はお供たちから少しばかり離れると、祈りながら、
この苦境からの神の助けを念じた。
お供のところに戻ってくるとすぐ、
彼はお供たちにいった。
『元気を出せ、わが息子たちよ。
神の恩寵により、われらは渡ることのできるもっとよい船を得た』。
しかし無邪気で単純な修道士ジョヴァンニには
ほかの船が見あたらず、こういった。
『われらが父よ、あの船がいってしまったのに、
どの船で渡るというのか』。
彼が答えた。
『主は、ほかのよい、しかも安全な船を
われわれにお与えになった。すなわち私のマントである』。
すると彼はマントを波の上に広げ始めた。
海の上へと進み行く準備が、
着々と進められているというところでしょうか。
楽譜のページを次にめくりますと、今度は、
この標題文の中の文章と、ピタリ!?重なるよう
解釈されえるところがあります。
まず、文章からご紹介いたしますと、
ついにわれらが聖人が彼のマントを波の上に広げ、
[十字を切って]神の御名においてマントを祝福すると、
マントの一部がもち上がって小さな帆のようになり、
彼のつえがマストのようにそれを支えた。
彼はお供たちとともにこの奇跡的な船に乗りこみ、
出航したのである。
上記の「十字を切って」というくだりが、
4小節に渡る同じような音形の繰り返しによって
音楽として描かれているのかも!?しれません。
ついに、彼らは出航し、
頼りない足元には、漆黒の荒れ狂う海原がうごめいている様が
リストの作曲により見事に!!描かれていると思います。
自分の想像力の調子が良いと、
足元に海がうごめいている様が見えるようで、
背筋がぞくっとすることがあります。
まさに
「波を渡る」奇跡を垣間見る、
といったところでしょうか!?
物語は進み、
曲は、リストの音楽の真骨頂でもある
ピアノの超絶技巧的箇所が次々に現れます。
大波!?を思わせる両手のアルペジオ、
低音部で、深い声のように聞こえてくるテーマ、
荒れ狂う海・波の轟き
(この部分を、リストがレッスンにおいて
「非常にうねるように」と要求したそうです)
次々と襲い掛かる暴力的な波
そしてついに冒頭のテーマが戻る、
ここに、
標題文とのつながりを見出すことができると思われました。
それは以下の個所。
神は、彼の聖なる御名の栄光のために
次のことを告知することを望んだ。
すなわち神は、
大地と火を
われらが聖人に服従させたばかりでなく、
波をも服従させたのだと。
「波を服従させた」様が、
この堂々と鳴り響くテーマの再現に
見出すことができるのではないでしょうか。
さらには、
「火を服従させた」様も、(高音域と中音域の鬩ぎあい!?)
「大地を服従させた」様も、(低音域と中音域の鬩ぎあい!?)
音になっているように見え・聞こえると思われます。
ついには、
この記事の冒頭で紹介いたしました
標題文の始めの方にあった文章
彼は片手を高く上げ、もう片方の手には燃えさかる石炭のもっている
という姿が、
表されるのではないでしょうか!?
よって、この曲を弾く奏者は、
アルペジオの最後の音sfで右手を高く上げ、
左手を下ろした姿にすることは、
演技ではなく、音楽としての深い理解に根ざした「所作」として表現され、
またそれが理想的な「音」を引き出すことになるかもしれないと、
私は信じております。(世阿弥の言う「所作と音曲の一致」の極地)
「神は、彼の聖なる御名の栄光のために次のことを告知することを望」み、
大地を、
火を服従させ、
そして波をも服従させたことが
この3段に表されているのではないでしょうか。
そして、
曲のコーダ(終結部)として、
かの不親切な船頭は、彼の頼みを断ったことを許してくれるよう懇願し、
自分の船に乗ってくれるよう頼んだ。
~~中略~~
神は、聖人にこの申し出を断らせ、
小舟よりも先に港に到着させたのである
この様子が、表されているよう、想像することが出来ましょうか。
ここで作曲法として興味深いのは、
同じ音形で三回・1小節づつ計3小節に渡って
曲の終わりに向かって盛り上がってゆく所。
この「3回・3小節」という数字に、
キリスト教における神的な意味(三位一体)を持つ「3」
あるいは、先の文章にあった
「大地と火を、波をも服従させた」という意味合いを
見て・聞いて取ることが出来るよう、
解釈することが可能かもしれません。
そして最後に、
「fff」という巨大な音量の指示で、
四つの和音が打ち鳴らされて終わる、
この四つ和音には、
標題文の始めの方にあった「4大要素」
すなわち、
大自然の根源をあらわす「元素」に言及することで、
普遍的な大自然と共にある聖人フランチェスコの奇跡の物語を
最後までしっかり象徴しているよう、
見出すことができるようにも思われます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
おしまいに、
この楽曲のモティーフ「波を渡る」という物語に、
21世紀の科学を知っている我々にとっては、
「それは、ありえないだろう」
という疑惑の念を持たないことは
ちょっと出来ないことのようにも思われます。
マントに乗って海を渡るのは・・・ねぇ・・・
しかし、この音楽を、
一宗教の信仰心を確かめる「踏み絵」のようなものととらえるのではなく、
一人の人間フランチェスコが、大自然の大海原を前に立ち向かう
力強い姿・心・精神を思うと、
この音楽は、単なる宗教音楽にとどまらない、
人間としての強い生き様をあらわす、力に満ちた音楽作品であると
いうことができるのではないでしょうか。
・・・我々は、大自然を服従させることは、できなさそうです・・・
今年の3月の大津波を目の当たりにした今日の我々には、
その真実は、あまりに明白です・・・・
でも、
東北の多くの人々は、
そんなにも酷い目に合わされた海を、憎んではいないというのです!!!
自然と伴に生きる運命の我々人間、
心の強さ・精神を奮い立たせ、
時に自然の猛威に犯されながらも、
再び立ち上がらんとする気力となるきっかけに、
この音楽作品、リスト作曲《波を渡るパオラの聖フランチェスコ》は
大きな力を秘めているかもしれません。
音楽を通して、人々の力になれるのならば、
それこそが音楽家としての本望といえましょう。
♪
曲の始まりから、楽譜で見開き1ページの部分は、
左手の低音のトレモロに伴奏され、
右手で朗々と歌われるメロディーからは、
「大海原」と「聖人フランチェスコ」の姿があらわれているよう
想像することはし易いのではないでしょうか。
作曲者リスト自身が楽譜に掲載した標題文の
以下の部分と音楽がつながりましょうか。
あざける水夫たちの無作法な態度にいささかも取り乱すことなく、
またつねに彼を支えてきた神霊に励まされて、
聖人はお供たちから少しばかり離れると、祈りながら、
この苦境からの神の助けを念じた。
お供のところに戻ってくるとすぐ、
彼はお供たちにいった。
『元気を出せ、わが息子たちよ。
神の恩寵により、われらは渡ることのできるもっとよい船を得た』。
しかし無邪気で単純な修道士ジョヴァンニには
ほかの船が見あたらず、こういった。
『われらが父よ、あの船がいってしまったのに、
どの船で渡るというのか』。
彼が答えた。
『主は、ほかのよい、しかも安全な船を
われわれにお与えになった。すなわち私のマントである』。
すると彼はマントを波の上に広げ始めた。
海の上へと進み行く準備が、
着々と進められているというところでしょうか。
楽譜のページを次にめくりますと、今度は、
この標題文の中の文章と、ピタリ!?重なるよう
解釈されえるところがあります。
まず、文章からご紹介いたしますと、
ついにわれらが聖人が彼のマントを波の上に広げ、
[十字を切って]神の御名においてマントを祝福すると、
マントの一部がもち上がって小さな帆のようになり、
彼のつえがマストのようにそれを支えた。
彼はお供たちとともにこの奇跡的な船に乗りこみ、
出航したのである。
上記の「十字を切って」というくだりが、
4小節に渡る同じような音形の繰り返しによって
音楽として描かれているのかも!?しれません。
ついに、彼らは出航し、
頼りない足元には、漆黒の荒れ狂う海原がうごめいている様が
リストの作曲により見事に!!描かれていると思います。
自分の想像力の調子が良いと、
足元に海がうごめいている様が見えるようで、
背筋がぞくっとすることがあります。
まさに
「波を渡る」奇跡を垣間見る、
といったところでしょうか!?
物語は進み、
曲は、リストの音楽の真骨頂でもある
ピアノの超絶技巧的箇所が次々に現れます。
大波!?を思わせる両手のアルペジオ、
低音部で、深い声のように聞こえてくるテーマ、
荒れ狂う海・波の轟き
(この部分を、リストがレッスンにおいて
「非常にうねるように」と要求したそうです)
次々と襲い掛かる暴力的な波
そしてついに冒頭のテーマが戻る、
ここに、
標題文とのつながりを見出すことができると思われました。
それは以下の個所。
神は、彼の聖なる御名の栄光のために
次のことを告知することを望んだ。
すなわち神は、
大地と火を
われらが聖人に服従させたばかりでなく、
波をも服従させたのだと。
「波を服従させた」様が、
この堂々と鳴り響くテーマの再現に
見出すことができるのではないでしょうか。
さらには、
「火を服従させた」様も、(高音域と中音域の鬩ぎあい!?)
「大地を服従させた」様も、(低音域と中音域の鬩ぎあい!?)
音になっているように見え・聞こえると思われます。
ついには、
この記事の冒頭で紹介いたしました
標題文の始めの方にあった文章
彼は片手を高く上げ、もう片方の手には燃えさかる石炭のもっている
という姿が、
表されるのではないでしょうか!?
よって、この曲を弾く奏者は、
アルペジオの最後の音sfで右手を高く上げ、
左手を下ろした姿にすることは、
演技ではなく、音楽としての深い理解に根ざした「所作」として表現され、
またそれが理想的な「音」を引き出すことになるかもしれないと、
私は信じております。(世阿弥の言う「所作と音曲の一致」の極地)
「神は、彼の聖なる御名の栄光のために次のことを告知することを望」み、
大地を、
火を服従させ、
そして波をも服従させたことが
この3段に表されているのではないでしょうか。
そして、
曲のコーダ(終結部)として、
かの不親切な船頭は、彼の頼みを断ったことを許してくれるよう懇願し、
自分の船に乗ってくれるよう頼んだ。
~~中略~~
神は、聖人にこの申し出を断らせ、
小舟よりも先に港に到着させたのである
この様子が、表されているよう、想像することが出来ましょうか。
ここで作曲法として興味深いのは、
同じ音形で三回・1小節づつ計3小節に渡って
曲の終わりに向かって盛り上がってゆく所。
この「3回・3小節」という数字に、
キリスト教における神的な意味(三位一体)を持つ「3」
あるいは、先の文章にあった
「大地と火を、波をも服従させた」という意味合いを
見て・聞いて取ることが出来るよう、
解釈することが可能かもしれません。
そして最後に、
「fff」という巨大な音量の指示で、
四つの和音が打ち鳴らされて終わる、
この四つ和音には、
標題文の始めの方にあった「4大要素」
すなわち、
大自然の根源をあらわす「元素」に言及することで、
普遍的な大自然と共にある聖人フランチェスコの奇跡の物語を
最後までしっかり象徴しているよう、
見出すことができるようにも思われます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
おしまいに、
この楽曲のモティーフ「波を渡る」という物語に、
21世紀の科学を知っている我々にとっては、
「それは、ありえないだろう」
という疑惑の念を持たないことは
ちょっと出来ないことのようにも思われます。
マントに乗って海を渡るのは・・・ねぇ・・・
しかし、この音楽を、
一宗教の信仰心を確かめる「踏み絵」のようなものととらえるのではなく、
一人の人間フランチェスコが、大自然の大海原を前に立ち向かう
力強い姿・心・精神を思うと、
この音楽は、単なる宗教音楽にとどまらない、
人間としての強い生き様をあらわす、力に満ちた音楽作品であると
いうことができるのではないでしょうか。
・・・我々は、大自然を服従させることは、できなさそうです・・・
今年の3月の大津波を目の当たりにした今日の我々には、
その真実は、あまりに明白です・・・・
でも、
東北の多くの人々は、
そんなにも酷い目に合わされた海を、憎んではいないというのです!!!
自然と伴に生きる運命の我々人間、
心の強さ・精神を奮い立たせ、
時に自然の猛威に犯されながらも、
再び立ち上がらんとする気力となるきっかけに、
この音楽作品、リスト作曲《波を渡るパオラの聖フランチェスコ》は
大きな力を秘めているかもしれません。
音楽を通して、人々の力になれるのならば、
それこそが音楽家としての本望といえましょう。
♪