今思い返してみれば、
おそらくは自分のドイツ留学の後半期あたりから、
ショパンやラヴェルの作品をくまなく勉強してみたり、
ベートーヴェンの《ピアノソナタ》の全曲演奏会の頃から、
巨匠の作品達を通じて、
あるひとつの世界観に出会い、それが
自分の中で、現実味ある想像力をもって
大きな位置を占め始めていきました・・・。
簡単に言ってしまえば、
それは「来世を思う」という、きっと誰しも心の内にある
時代や空間を越えた「人間」としての共通な思いなのですが、
巨匠達の、特に後期の作品において、それが
顕著に現れてくることが多いと思うのです。
●ショパンならば《幻想ポロネーズop.61》
●ラヴェルならば《亡き王女のためのパヴァーヌ》《クープランの墓》
●ベートーヴェンならば《ピアノソナタop.110、op.111》《ディアベリ変奏曲》
さらにもっと、
ざっと思いつくあたりで述べてみれば、
●シューマンだって《暁の歌op.133》
●ブラームスだって《ドイツ・レクイエム》《op.119》《op.120》
●フォーレだって《ノクターン第13番》
●チャイコフスキーだって《シンフォニー第6番》
彼らの音楽作品には、
「楽曲」という形を成した「来世への思い」、あるいは
既に逝った親しい人々のことを思い、
彼ら・彼女らとの再会を夢みるような思いが、
それぞれの作曲家によって、それぞれのやり方で
現れているように思えて仕方ないのです。
いや、こうしたアイディアは自分にとって、
もしかすると、そのずっと前から、
自分の思春期の頃に「諸行無常」という言葉に出会ったころから
こうした旅は始まっていたのかもしれないし、いやもしかしたら
もっとそのずっと前・・・ひとり遊びにふけった幼少の頃
無邪気に思った世界のことだったのかもしれません。
それは特別なことでもなんでもなく、皆さんにも
有り得ることではないでしょうか?
そんな世界に最近では、巨匠達の音楽作品を通して
いよいよ大きな現実味を帯びてどっぷりと
ここ数年間つかっている自分に
この頃は、ちょっと、不安にもなっているのです。
これでいいのかしら?
これでいて、健全な人間として
生きてゆけるのかしら?
・・・そんなことを漠然と思ってすごしていたこの8月の後半、
思いがけず古本屋で手に取ったのが
手塚治虫氏の作品。
いつか読みたい、読むことになるだろうと思っていたその日が
ふと、訪れたのでした。
『火の鳥』
これは第6巻、「望郷編」。
漫画というジャンルにおいて、
いや、ジャンルなぞという垣根をとっくに越えた
桁違いの天才・巨匠の作品に出会えた気がしたのです。
圧倒的な世界観、
桁違いの想像力、
大勢の人々が、彼に夢中になるのがよく分かる気がします。
それは当然といえば当然なのかもしれません。
なかば圧倒されて、この『火の鳥』の
読後感にふけりながら、
ふと、
ピアノの前に座ってみて自分が弾き始めた曲は、
ベートーヴェン《ピアノソナタ第31番 As-Dur op.110》
そして続く《ピアノソナタ第32番 c-moll op.111》
久しぶりに紐解く自分にとっての
恐れ多くも慣れ親しんだこの作品達が、
手塚治虫氏のこの大きな作品を読んでみて、
「来世のこと」「繰り返される輪廻転生」のこと、
そして「飛ぶ鳳」の姿などが、このベートーヴェンの音楽にも
ピッタリあてはまるかのような、
ありありと目の前に浮かんでくるような、
いきいきとした巨大な想像力をもって
再び息を吹き返したような気がしたのでした。
そう、
こういう生き方がきっとあるのだと。
こういう世界に沿って生きた人々は沢山いるんだと。
そうあってもいいんだと、
勇気付けられた気がするのでした。
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PianistSegawaGen@aol.com
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おそらくは自分のドイツ留学の後半期あたりから、
ショパンやラヴェルの作品をくまなく勉強してみたり、
ベートーヴェンの《ピアノソナタ》の全曲演奏会の頃から、
巨匠の作品達を通じて、
あるひとつの世界観に出会い、それが
自分の中で、現実味ある想像力をもって
大きな位置を占め始めていきました・・・。
簡単に言ってしまえば、
それは「来世を思う」という、きっと誰しも心の内にある
時代や空間を越えた「人間」としての共通な思いなのですが、
巨匠達の、特に後期の作品において、それが
顕著に現れてくることが多いと思うのです。
●ショパンならば《幻想ポロネーズop.61》
●ラヴェルならば《亡き王女のためのパヴァーヌ》《クープランの墓》
●ベートーヴェンならば《ピアノソナタop.110、op.111》《ディアベリ変奏曲》
さらにもっと、
ざっと思いつくあたりで述べてみれば、
●シューマンだって《暁の歌op.133》
●ブラームスだって《ドイツ・レクイエム》《op.119》《op.120》
●フォーレだって《ノクターン第13番》
●チャイコフスキーだって《シンフォニー第6番》
彼らの音楽作品には、
「楽曲」という形を成した「来世への思い」、あるいは
既に逝った親しい人々のことを思い、
彼ら・彼女らとの再会を夢みるような思いが、
それぞれの作曲家によって、それぞれのやり方で
現れているように思えて仕方ないのです。
いや、こうしたアイディアは自分にとって、
もしかすると、そのずっと前から、
自分の思春期の頃に「諸行無常」という言葉に出会ったころから
こうした旅は始まっていたのかもしれないし、いやもしかしたら
もっとそのずっと前・・・ひとり遊びにふけった幼少の頃
無邪気に思った世界のことだったのかもしれません。
それは特別なことでもなんでもなく、皆さんにも
有り得ることではないでしょうか?
そんな世界に最近では、巨匠達の音楽作品を通して
いよいよ大きな現実味を帯びてどっぷりと
ここ数年間つかっている自分に
この頃は、ちょっと、不安にもなっているのです。
これでいいのかしら?
これでいて、健全な人間として
生きてゆけるのかしら?
・・・そんなことを漠然と思ってすごしていたこの8月の後半、
思いがけず古本屋で手に取ったのが
手塚治虫氏の作品。
いつか読みたい、読むことになるだろうと思っていたその日が
ふと、訪れたのでした。
『火の鳥』
これは第6巻、「望郷編」。
漫画というジャンルにおいて、
いや、ジャンルなぞという垣根をとっくに越えた
桁違いの天才・巨匠の作品に出会えた気がしたのです。
圧倒的な世界観、
桁違いの想像力、
大勢の人々が、彼に夢中になるのがよく分かる気がします。
それは当然といえば当然なのかもしれません。
なかば圧倒されて、この『火の鳥』の
読後感にふけりながら、
ふと、
ピアノの前に座ってみて自分が弾き始めた曲は、
ベートーヴェン《ピアノソナタ第31番 As-Dur op.110》
そして続く《ピアノソナタ第32番 c-moll op.111》
久しぶりに紐解く自分にとっての
恐れ多くも慣れ親しんだこの作品達が、
手塚治虫氏のこの大きな作品を読んでみて、
「来世のこと」「繰り返される輪廻転生」のこと、
そして「飛ぶ鳳」の姿などが、このベートーヴェンの音楽にも
ピッタリあてはまるかのような、
ありありと目の前に浮かんでくるような、
いきいきとした巨大な想像力をもって
再び息を吹き返したような気がしたのでした。
そう、
こういう生き方がきっとあるのだと。
こういう世界に沿って生きた人々は沢山いるんだと。
そうあってもいいんだと、
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