音楽家ピアニスト瀬川玄「ひたすら音楽」

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偽作と分かった今、実際に《交響曲ヒロシマ》を聴いてみて

2014年02月10日 | ◆一言◆
先の記事、「偽作と分かった今、実際に《ヴァイオリンのためのソナチネ》を聴いて」に続き、
実はその後YouTubeのリンクをたどり・・・
《交響曲ヒロシマ》の最後の部分も視聴することが出来ました。

飯守泰次郎先生指揮、東京フィル演奏、会場は池袋の芸術劇場大ホールのよう・・・

これまたなかなかドラマティックな音楽!
金管楽器群と弦楽器群にシンバルや銅鑼や大太鼓が大活躍する壮絶な音楽で、トランペットの音は神々しく(いや悪魔的!?)にも聴こえてくる・・・
突如終わる!?かに聴こえる音楽の中断の演出も心憎く、緊迫感は持続され、楽曲は簡単には終わらない・・・
しばらくすると、マーラー作曲の名作《アダージエット》を彷彿させる(・・・真似た?)弦楽器とハープ(←《アダージエット》と同じ楽器編成)によるE-Durホ長調の涙を誘う感動的な音楽が流れる・・・(倚音とサブドミナントが巧みに使われている!)
それはまるでブラームスの《ドイツ・レクイエム》のテクスト「getröstet werden(慰められる)」という言葉までもが思い出させられました・・・
途中でC-Durハ長調(臨時記号の無い=汚れなき世界を思わせる真っ白な調性)を経由する転調の手法は、ベートーヴェン(←本物の(←と書かなければならないのが悲しい・・・))がとっても好んだ!「借用6度和音」の手法です。

そして!最後にはついに鐘が鳴る!これはマーラー作曲《交響曲第2番「復活」》の最後と同じアイディア!

そうと分かっても・・・
音そのものの持つ力ゆえにか、私の目頭は、またも(偽作と知ってしまった今ですら!)熱くなりました・・・

《交響曲ヒロシマ》の名前をそのまま捉えるならば、
あの・・・1945年の夏の日、決してあってはならない!瞬間大量虐殺の悲劇が起こり、人類の負の遺産の象徴のひとつとなってしまった広島市は、心ある我々日本人なら誰しも思いを馳せることが出来る存在です。

音楽《交響曲ヒロシマ》の最後を聴いていると、深い痛手を負った心の傷を胸の内に秘めつつも、その悲劇を乗り越え、光と希望と力に満ちた未来を信じさせてくれるような・・・音楽の強い強い力を!感じることが出来ました。

これらは、テレビのニュースやワイドショーで何度も映された「指示書(発注書?)」のアイディアが元にとなっていたのだそう・・・
《ヒロシマ》という名前も、作曲当初にはなかった後付けの題名なのだそう・・・

それでも!この音楽そのものは、あの悲劇ヒロシマを思い出させ、それを乗り越え光に満ちた未来を希望させる力を、確かに持ってしまっている!?と、あらためて思いました。
これに本気で涙した人々(動画にはその様子も映し出されています)の心は、何の恥ずべきことはない、感受性豊かに音楽を愛する人間の誇らしい姿!だと思います。

そういえば、クラシック音楽においては、作者(この場合、作曲者は新垣隆氏)の意図と離れて勝手に題名(俗称)が付けられてしまうことは、よくあることでした。
ベートーヴェンの《ピアノソナタ》「月光」「田園」「テンペスト」「熱情」、ショパンの「革命」「木枯し」「別れの曲」など、どれも!作者の付けた名前ではありません・・・

《交響曲》が書かれ、それが「ヒロシマ」という題名がつけられてしまった、ただそれだけのこと・・・?

聴く人が、それにヒロシマを思い、音そのものからイメージが膨らみ、猛烈な感動が押し寄せたとしても、不思議ではない。

音楽を聴くにあたっての、とある一面がここに見出だせましょうか。

ところで、
もしもこの《交響曲》が「新垣隆作曲」として出ていたら・・・このような反響はあったでしょうか?

いや、その疑問以前に、現役のクラシック音楽作曲家である新垣氏本人にとって、それは決し出来ないことでしょう。
この《交響曲》は、前述の通り、過去のクラシック音楽の名作に少なからず依存している作品のようで、現役の作曲家として、このような方法による作曲を、世に「自分の新しい作品」として発表することは、とても出来ないのが現状でしょう!
「猿真似」と言われて罵倒されるのがオチ・・・?
「ゲーム音楽のようだ」と低級扱いされるかもしれません・・・(←でもそんな評価は大事なこと?何が悪い?
「新しい」と称するわけの判らない不自然な(=多すぎる不協和音!?)現代音楽と、どっちが高級・低級!?)

なんと複雑で面倒くさいクラシック音楽の作曲業界!?

せっかく人々の心を音楽の力で真に揺り動かすことの出来る作品が評価されないとしたら・・・
私にはその現状はあまり面白く感じられません。

音楽に対する誠意をもって、素晴らしくよく出来た現代音楽も少なからず存在しているでしょうし、それを咀嚼しその魅力を感じられるようになることは不可能ではありませんが、これは正直・・・なかなか難しく骨の折れることとも思われます・・・もちろん!「よいものはよい」はずですが、それに気付けるようになるのが大変ということ!?

一方では、調性のある音楽の作曲を「使い古された技法」と非難したり、「つまらない」という音楽のエリート達(プラトンのいう「ソフィスト」のよう!?)の言葉を耳にすることがありますが・・・

それなら、どうぞやってみなさい。

モーツァルトやベートーヴェンのような立派な調性音楽を書いてみなさい!
果たして、世に知れたあの名作達と同じ域に達せるものかどうか・・・
勉強したからといって、誰もが出来ることではないと、今の私は思っています。

・・・これは、無から音楽を産み出す作業をしていない演奏者の立場からの呑気な戯れ言でしょうか・・・?
これは、既存のクラシック音楽・調性の魅力を研究し勉強する日々を送っている一人の音楽家の真面目な考察の末、出来てきている感想です。

佐村河内氏には、私はそのような期待をしていたのです!
「調性音楽の持つ普遍的な魅力」が、21世紀になった今日においても、国境を越え、人種を越え、人々に感動をもたらすということを、今を生きる現役の活動で証明してくれている!
我が音楽家としての一生をこれにかけよう!という、礎の一つとさせていただきたいと楽しみにしていた・・・

はぁ・・・このように書くと、今は肩透かしをくらったような・・・虚無感に心が覆われてしまう・・・

佐村河内氏いなくては、《交響曲ヒロシマ》は存在しなかった、これはまぎれもない事実なのでしょう、現役作曲家である新垣氏だけでは、こうはならなかった・・・

上記の動画には、演奏が終了した後、サングラスをかけ杖をついて舞台に向かう問題の男の姿も映し出され、彼はまさに「感無量」の面持ちで、満員の会場にむかって胸に手を置いて御辞儀しています・・・

その心境たるや、どんなものなのか・・・私には想像できない・・・

この人物の私が気に入らない!点は「自己顕示欲が非常に強い」とのこと・・・
彼と直接交流していた新垣氏によれば、《ヴァイオリンのためのソナチネ》を献呈された子と家族に対し、佐村河内氏は「テレビに出してあげたのに感謝が足りない!」と言ったとか・・・
なんとつまらない心意気でしょうか!?
このような点があるからこそ、彼の広島や東日本大震災に関する言動(音楽に関しても!)には、不信感(嫌悪感!?)を抱くことを禁じえません・・・
そして残念ながら・・・その不信感は、音楽作品自体の持つ魅力をすら覆い隠しかねない、素直な音楽の心を惑わす非常に迷惑な行為となったのです!
我々はこれを「侮辱された」と感じているところでしょうか・・・

でも、でも・・・この人物なくしては、《交響曲ヒロシマ》の巨大な感動はこの世に姿を現すことはなかった・・・


・・・またわけが分からなくなってきた・・・

中途半端な文章の終わりでごめんなさい・・・







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1 コメント

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音楽の核心を突いたブログ (MOTO)
2020-04-05 19:38:49
瀬川 様
失礼ながら、名前も存じ上げなかったのですが、
たまたま、ベートーヴェンのソナチネ偽作について
検索していたら、交響曲ヒロシマの記事が出てきたので、思わず読んでしまいました。
内容は、本当に我が意を得たりという感じで、
もう世間ではほとんど抹殺されかけているようなこの交響曲に対して、このような文章を書けるというのは、本当に音楽のことを愛していて、真髄を理解されている本物の芸術家に違いないと確信しました。「それならどうぞやってみてください」という言葉に思いが集約されています。本当にその通りだと思います。
私は瀬川さんのような芸術家ではなく、道楽で音楽が好きで愛好しているものです。楽譜もろくに読めないし、音楽理論にも疎いです。ただ数々の音楽を聴いている中で、音楽の素晴らしさだけは、わかるつもりです。現代において、調性音楽をまじめに発表すれば、意地の悪い評論家に「どこどこの部分は~風、ここの部分は誰々風、このメロデイは誰々の借用・・・・」といった具合にこき下ろされることが多そうですが、そういうことをしたり顔で言う評論家は、音楽の真理をわかってないのです。
作曲家に対しても失礼です。
ヒロシマについてですが、佐村河内の一件は残念なことですが、その音楽の持つ魅力は全く別物です。
新垣氏が作曲した素晴らしい芸術でしょう。
この曲に涙するのは、本当に音楽が好きで、理解している人だと思います。プロのアーティストでピアニストでありながら、この曲に素直に感動できたことを告白した瀬川さんは本当に素敵だと思います。
私も第三楽章で泣けますね。
個人的にはベートヴェンの30番が一番好きな音楽の一つなので、ブログ記事の「飛翔感覚」が凄く共感しましたね。本当に宙を浮く感覚が味わえる奇跡の音楽だと思うので。周りでクラシック音楽を好きな人が全くいないので、一人さみしく愛好しているのですが、このような記事を読むと嬉しくなります。
コロナ騒動が収束したら、瀬川さんのコンサートにも行ってみたいですね。応援します。頑張ってください。
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