クラシック音楽の作曲家として大成した人々、
彼等が熟成した後に、
自らの若年に創作した作品を思い返し、それが
良いものであったことを
自ら認めるということが
あるようです。
今思い付くところでは、
ショパン作曲の《エチュード ホ長調 op.10-3 「別れの曲」》
20歳の頃に作曲したこの曲のことを、
ショパン自身は後年、
「自分が書いた中でも最も美しいメロディー」
と言ったのだそうです。
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Dur、major、長調の音楽の内で
moll、minor、短調の「サブドミナント(4度和音、下属和音)」が出てくるとき、
音楽は、えもいわれぬ「一抹の寂しさ」をかもしだすようです・・・
例:
ショパン作曲
《ノクターン第2番 変ホ長調 op.9-2》
終結部Codaにて
《エチュード第3番 ホ長調 op.10-3 「別れの曲」》終結部Codaにて
自分のドイツ留学時の尊敬する和声 . . . 本文を読む
かつて、人類の歴史の内には、
ある個人、一人の人間を「神格化」することがあったようです。
ローマ皇帝を神としたり、
あ・・・我々の身近、日本の天皇も
つい最近、半世紀前まで
神として崇め奉られていたのは、
記憶に新しい方々も、今なお健在かと思われます。
そう考えてみると、
今回の内容は、非常にナイーヴな、気を付けなければならない事と反省を気付かされるのですが・・・
それはさておき、
勇 . . . 本文を読む
日本古来からある神社
手水舎で手を・口を清めて、
心ばかりのお賽銭をして、
二度お辞儀をして、
二度手をたたいて、
もう一度お辞儀をする。
これら定まったひとつの作法、さらには
お詣りするという行為そのすべては
「人の心の栄養補給」のための
古来から伝わる「有機的な習わし」なのかしら、と思いました。
それは義務でも強制でもない、
いうなれば、真心(まごころ)からの人としての生きる術・・・ . . . 本文を読む
昨日は節分でした。
実家の父に手渡されるまま、
庭の外に向かって声を出して豆を投げてみました。
「福は~~うち~~!!」「鬼は~~そと~~・・・」
・・・そこで、なんだかちょっと違和感を感じてしまったのです・・・
人生、良いことと悪いことは、同じ分量だけあるといいます。
お釈迦様の「中道」という説法が思い出されます。
すると、無下に「鬼」を外に追い出してしまってよいものかどうか . . . 本文を読む
20歳の頃にショパンが姉ルドヴィカに宛てて書いた
《Con grand espressione(ノクターン第20番)》が
祖国を去る、この若者の覚悟・決意・予感をしたためたものであろうことを
前回の記事に記しました。
http://blog.goo.ne.jp/pianist-gensegawa/e/63bb813893f0840ceefc858af5169f7f
そして、
晩年のショパン35歳 . . . 本文を読む
ショパン20歳の頃の作曲
《Con grand espressione(ノクターン第20番)》
人々の心揺るがす、若きショパンの名作のひとつです。
この曲には、
若きにして、故郷を生涯去ることとなったショパンの
祖国ポーランドへの想いが切々と現されているようです・・・
聴く者の・弾く者の心を締め付けるような
切ない音楽・・・
吹き荒ぶポーランドの冷たい風は
四回に渡って、この曲の終結部Co . . . 本文を読む
単なる教養人であっても、真の芸術家にはなれない・・・
いくら教養・知識があっても、それでよいわけではなさそう
もちろん、あるに越したことはないが。いや・・・
邪魔になる知識もあるのかも・・・!?
真の芸術家として必要なのは、
蓄積され・されゆく知識や体験を
有機的に活用してゆける
能動的な「精神の働き」なのではないだろうか
過去の・今の芸術家といわれる人々を思い返すと、
そのような . . . 本文を読む