夜九時過ぎの始発電車での出来事。向かいに座った50代と思しき男が、急に携帯を取り出しどこかに電話し始めた。急いた様子で、「取り敢えず今から行く」と早口に言った。そして相手の返答に「いやよく分からない」と返した。どうやら行く先の具体的な場所が分からないようだった。何故だろうとそれを聞いた私は思ったが、直ぐにその理由は判明した。男は聞いたとおりに復唱している。「うんうん、そこを右に、はいっ、そして真っ直ぐ...南病棟ね」。つまりこれから病院に行くところだったのだ。降りる駅名も言っていたので、ああ確かにあそこには大きな病院があると納得した。これだけだったら特別なものではなかったのだが、その後の男の態度が普通ではなかった。突然絞り上げるような声で、「何でだ」と独り言を言い始めたのだ。抑えられない思いが吹き上げてきたようで、目には薄っすら涙さえ見えた。そしてそれは肉体にも影響を及ぼした。感情の動きが肉体に連動したのだった。携帯が音を立てて床を滑った。あわてて拾い上げた男は、その一連の動作で少し落ち着きを取り戻したようで、独り言も徐々に収まっていった。
身内というより親しい人が重篤な状態で入院しているのだろうと私は思った。「何でだ」という男の言葉には、何故お前が死ななくてはならないのだという無念さが込められていたのではないだろうか。駅に到着すると、男は意を決したように席を立った。これから始まるドラマは決してハッピーなものではないだろう。見上げると夜空には、一際大きな月が輝いていた。そうか今日は満月か。月にとっては今日のこの出来事も、何億とあるドラマの一つに過ぎないのだろう、とふと思った。
何て話を、山田太一ならもっと膨らませて一つの作品にするのだろう、と、思ったのだった。