インドで考えたこと, 堀田善衞, 岩波新書(青版)297(F31), 1957年
・インドの旅行記というよりは、書名のとおり、インドを材料にとった思索の書。書かれていることを十分に理解するには、私の能力では足りずちょっと歯が立たない感じです。もっと修行が必要。
・50年前の本ですが、今でもインドの田舎に行けば状況はほとんど変わってないのでは、と思えます。単なる想像で実際のところ全く分かりませんが。本書を読むとますます謎が増え、とらえどころがなくなる。そんな神秘の国、インド。行ってみたいか? と問われると、、、う~ん、、、即答しかねます。
・「この手記は、私が1956年の晩秋から58年の年初にかけて、第一回アジア作家会議に出席するためにインドに滞在したその間に、インドというものにぶつかって私が感じ考え、また感じさせられ考えさせられたことを、別に脈絡をつけることなくじかに書きしるしてみたものである。」p.ii
・「この旅行は、私にとってひょっとするとアジアにおける日本の特殊性について考えるための旅行であったかもしれない。」p.4
・「空気は乾いている。日本と比べてあまりに乾燥しているので、空気というものがまったくないのではないか、といった奇妙な錯覚さえ起こりかねない。」p.18
・「しかし、ここに不思議なのは、この七人の文学者は、森羅万象について話しても、文学についてだけは話さぬという奇々怪々な結果になったことであった。 というのは、そこにこそ、重く苦しい歴史をこれまでに背負って来た全アジアの真の面貌の一つがあらわれていると私は思うのだが、要するに、お互いがお互いの文学について、なにひとつ知らないからなのだ。」p.27
・「悲しいことに、アジアでは、中国、ソヴェト、日本の三国をのぞけば、文学者が文筆だけで自立出来る国は、いまのところどこにもないのである。」p.36
・「インドへ来て、人が第一に放棄しなければならなくなるものは、ほかならぬ、この「彼等のもの」、「我等のもの」という考え方のようである。」p.39
・「けれども、本当は、歴史は直線的なものなどでは決してなくて、様々な次元が、古代の次元、中世、近世、近代などの諸次元が重層をなしていて、その切り口である現在という次元、現在という断面には、あらゆるものがむき出しになっている、そういうものではなかろうか。と、そんな風に、私はインドへ旅立つだいぶ以前から考え出していた。単純な発展段階説などで料理され得るようなものでは、人間の歴史は無いだろう、とも考えていた。」p.44
・「夜半、ふと目覚め、小用に行く。空の星が、死にたくなるほどに美しい。」p.59
・「太陽は、敵だ。このあたりではものを育てる母なる太陽ではなくて、一切の生き物を灼き枯らす兇悪な敵ではないか、と思われる。青一点張りの、うとましくなるほどに青い蒼窿のどまんなかで、太陽は千本もの手をふりまわして、勝手放題、人間の都合、総じて生きものの方の都合など考えてもくれず、たったひとりで躍り狂っている。千手観音というのは、こいつから発想されたんだろう、と云って、私はその無智を笑われたが、そう思いたくなるようなものである。」p.74
・「季節は、二つしかない。雨期と乾期だけである。」p.77
・「そして人々の動物的な生活水準。というよりも、殺生禁止が徹底しているための、動物との、いわば平和共存。マラリア菌をもっていることがわかっているのに、それでも蚊を殺すことを厭う人々がある。」p.78
・「とにもかくにも比較的に気候温和で食物の種類の多い日本島に育ったものにとって、インドの自然が人間に対してどんなに邪慳で無慈悲、かつ事実として脅迫的であるかを云うことはむずかしい。」p.79
・「デリーにいるあいだ、私は音楽の催し物がある毎に欠かさず聴きに行った。もともと音楽が好きだということもあったが、いちど聞いて、インドが実に豊かな音楽の資源をもっている、中国にくらべたら段違いに豊かなものであることに気付いたからであった。楽器も、百数十種類はあるらしい。(中略)リズムでは近代ジャズに似ていて、音響全体は、なんとなくシェーンベルヒの十二音階音楽を連想させる。音楽は、そして歌も、はじまるともなくはじまり、おわりになったとも思えぬところで、思いがけなく、そして決して基調音に復帰することなく、中途半端な次属音らしいもので、妙なところで、妙だろうがなんだろうがおかまいなしでハタとおわってしまうのである。怪奇にして異様なる音楽ということが出来るであろう。」p.88
・「戦後すでに十数万の日本人が海外へ出掛けた。サンフランシスコ講和会議に行った吉田茂の旅券が第一号だそうで、私のそれは138813号であった。」p.99
・「インドにはいったいいくつことばがあるのか。私は正確なことを知らない。というのは、質問をしても答えが人によって違うからである。ある人は、十四、十七、またある人は百とも百二十とも云う。私の記憶では、いちばん多いのが二百二十という答えであったと思う。 さて、この十七というのは次のようなものである。アッサム語、ベンガリー語、イングリッシュ(英語もインド内の一語、恐らく通用範囲がいちばん広いだろう)、グジェラーティ語、ヒンディ語(これを国語にしようということになっている)、カンナダ語、カシュミーリー語、マラヤラム語、マラーティ語、オリア語、パンジャビー語、ラージャスタニー語、サンスクリット語、シンディ語、タミル語、テルグー語、ウルドゥ語の十七。 私はつくづく思った。いや、インドという国は、これはたいへんなことになっている、と。」p.107
・「おそらく、日本のように一ヶ語だけで全国はなしの通じる国は、地球の上では、むしろ少数に属するのだ。特殊な国なのだ。」p.108
・「仕方がない、私はスプーンとフォークをあやつって、ひっかきまわし、灰色と黄と紅がまざりあって、遂にどす黒くなったものをひとくち、口に入れた。そして思い切って嚥下した。それは、もう辛いなどというものではない。頭のテッペンから汗が吹き出すような気がした。気も遠くなりかけた。(中略)黄色いものと紅いものと、山羊のヨーグルトと脳味噌でぐちゃぐちゃになった、黄、紅、白、灰色、これらのみんなにどす黒いのドスという形容をかぶせたものの盛り上がった皿を手にして、茫然としていると、今度は詩人が、これはどうやらあなたにはあわないらしい、ではこいつはあっさりしているから、こいつに、例の黄色いものや、深紅色のどろりとしたものをつけてお上がりなさい、」p.137
・「要するに概念がちがうのだ。極東の島とはちがうのだ。」p.140
・「もしおれがここに生れて……、と思うと、私はもう怖ろしくなって来る。その怖ろしさが、農村を少しばかり歩いてみて、身にぞくぞくと迫って来るのを覚えた。」p.141
・「夕暮れどきをちょっとすぎたくらいの時間に、カルカッタのダムダム飛行場に降り立ち、はじめて市中に車で入ったとき、途端に横面をはりとばされたような気がした。何にはりとばされたか。人口過剰、貧窮、街の汚さ加減などの千手観音の、その長い手の奥、その本体、本尊である「搾取」というものに。」p.150
・「帰国して、私はいろいろな人に、いろいろとインドの事情を聞かれた。(中略)そしてたいていの質問者の、最終的な疑問は、次の質問に帰着するようである。(中略)「そんなに貧しくって、非能率でのろくさくて、不潔で、官僚的で、古い宗教的なものが支配的なまでにありすぎる『後進国そのもの』なのに、いったい国際社会におけるネルーなんぞの偉そうな発言はどうしたわけのものなのか。あれは単なるハッタリなのかね、中味と外見がそんなにずれているんでは……?」」p.165
・「いかし、いったい何故インドのインテリ諸氏はかくも雄弁、あるいは超雄弁なのだろうか。」p.173
・「インドのある文学者と話していたとき、話題が不意に、人生の目的如何というような巨大な題目に入って行ったことがある。彼は言下に、目的は解脱(release)にある、といって私をおどろかせた。彼の考えと私の考えとは、根本的に対立する。私は解脱なんぞさせられてはたまったもんじゃない、と思っている。が一方では、心底では、不安でもあり空虚でもあるのである。」p.192
・「あるとき私は質問をした。 「しかし、それらはすべて死の思想ではないか?」 と。これに対して、言下に、 「しかり、しかるが故に生の思想である」 という返答をえた。」p.205
・「インドで、私はしばしば漱石のことばを思い浮かべた。そして、それと同時に、幾分の警戒心をまじえてではあったが、内村鑑三のことを考えた、特に『余はいかにしてキリスト教徒となりしか』という一書のことを考えた。」p.207
・「「その歩みがのろかろうがなんだろうが、アジアは、生きたい、生きたい、と叫んでいるのだ。西欧は、死にたくない、死にたくない、と云っている。」」p.210
・インドの旅行記というよりは、書名のとおり、インドを材料にとった思索の書。書かれていることを十分に理解するには、私の能力では足りずちょっと歯が立たない感じです。もっと修行が必要。
・50年前の本ですが、今でもインドの田舎に行けば状況はほとんど変わってないのでは、と思えます。単なる想像で実際のところ全く分かりませんが。本書を読むとますます謎が増え、とらえどころがなくなる。そんな神秘の国、インド。行ってみたいか? と問われると、、、う~ん、、、即答しかねます。
・「この手記は、私が1956年の晩秋から58年の年初にかけて、第一回アジア作家会議に出席するためにインドに滞在したその間に、インドというものにぶつかって私が感じ考え、また感じさせられ考えさせられたことを、別に脈絡をつけることなくじかに書きしるしてみたものである。」p.ii
・「この旅行は、私にとってひょっとするとアジアにおける日本の特殊性について考えるための旅行であったかもしれない。」p.4
・「空気は乾いている。日本と比べてあまりに乾燥しているので、空気というものがまったくないのではないか、といった奇妙な錯覚さえ起こりかねない。」p.18
・「しかし、ここに不思議なのは、この七人の文学者は、森羅万象について話しても、文学についてだけは話さぬという奇々怪々な結果になったことであった。 というのは、そこにこそ、重く苦しい歴史をこれまでに背負って来た全アジアの真の面貌の一つがあらわれていると私は思うのだが、要するに、お互いがお互いの文学について、なにひとつ知らないからなのだ。」p.27
・「悲しいことに、アジアでは、中国、ソヴェト、日本の三国をのぞけば、文学者が文筆だけで自立出来る国は、いまのところどこにもないのである。」p.36
・「インドへ来て、人が第一に放棄しなければならなくなるものは、ほかならぬ、この「彼等のもの」、「我等のもの」という考え方のようである。」p.39
・「けれども、本当は、歴史は直線的なものなどでは決してなくて、様々な次元が、古代の次元、中世、近世、近代などの諸次元が重層をなしていて、その切り口である現在という次元、現在という断面には、あらゆるものがむき出しになっている、そういうものではなかろうか。と、そんな風に、私はインドへ旅立つだいぶ以前から考え出していた。単純な発展段階説などで料理され得るようなものでは、人間の歴史は無いだろう、とも考えていた。」p.44
・「夜半、ふと目覚め、小用に行く。空の星が、死にたくなるほどに美しい。」p.59
・「太陽は、敵だ。このあたりではものを育てる母なる太陽ではなくて、一切の生き物を灼き枯らす兇悪な敵ではないか、と思われる。青一点張りの、うとましくなるほどに青い蒼窿のどまんなかで、太陽は千本もの手をふりまわして、勝手放題、人間の都合、総じて生きものの方の都合など考えてもくれず、たったひとりで躍り狂っている。千手観音というのは、こいつから発想されたんだろう、と云って、私はその無智を笑われたが、そう思いたくなるようなものである。」p.74
・「季節は、二つしかない。雨期と乾期だけである。」p.77
・「そして人々の動物的な生活水準。というよりも、殺生禁止が徹底しているための、動物との、いわば平和共存。マラリア菌をもっていることがわかっているのに、それでも蚊を殺すことを厭う人々がある。」p.78
・「とにもかくにも比較的に気候温和で食物の種類の多い日本島に育ったものにとって、インドの自然が人間に対してどんなに邪慳で無慈悲、かつ事実として脅迫的であるかを云うことはむずかしい。」p.79
・「デリーにいるあいだ、私は音楽の催し物がある毎に欠かさず聴きに行った。もともと音楽が好きだということもあったが、いちど聞いて、インドが実に豊かな音楽の資源をもっている、中国にくらべたら段違いに豊かなものであることに気付いたからであった。楽器も、百数十種類はあるらしい。(中略)リズムでは近代ジャズに似ていて、音響全体は、なんとなくシェーンベルヒの十二音階音楽を連想させる。音楽は、そして歌も、はじまるともなくはじまり、おわりになったとも思えぬところで、思いがけなく、そして決して基調音に復帰することなく、中途半端な次属音らしいもので、妙なところで、妙だろうがなんだろうがおかまいなしでハタとおわってしまうのである。怪奇にして異様なる音楽ということが出来るであろう。」p.88
・「戦後すでに十数万の日本人が海外へ出掛けた。サンフランシスコ講和会議に行った吉田茂の旅券が第一号だそうで、私のそれは138813号であった。」p.99
・「インドにはいったいいくつことばがあるのか。私は正確なことを知らない。というのは、質問をしても答えが人によって違うからである。ある人は、十四、十七、またある人は百とも百二十とも云う。私の記憶では、いちばん多いのが二百二十という答えであったと思う。 さて、この十七というのは次のようなものである。アッサム語、ベンガリー語、イングリッシュ(英語もインド内の一語、恐らく通用範囲がいちばん広いだろう)、グジェラーティ語、ヒンディ語(これを国語にしようということになっている)、カンナダ語、カシュミーリー語、マラヤラム語、マラーティ語、オリア語、パンジャビー語、ラージャスタニー語、サンスクリット語、シンディ語、タミル語、テルグー語、ウルドゥ語の十七。 私はつくづく思った。いや、インドという国は、これはたいへんなことになっている、と。」p.107
・「おそらく、日本のように一ヶ語だけで全国はなしの通じる国は、地球の上では、むしろ少数に属するのだ。特殊な国なのだ。」p.108
・「仕方がない、私はスプーンとフォークをあやつって、ひっかきまわし、灰色と黄と紅がまざりあって、遂にどす黒くなったものをひとくち、口に入れた。そして思い切って嚥下した。それは、もう辛いなどというものではない。頭のテッペンから汗が吹き出すような気がした。気も遠くなりかけた。(中略)黄色いものと紅いものと、山羊のヨーグルトと脳味噌でぐちゃぐちゃになった、黄、紅、白、灰色、これらのみんなにどす黒いのドスという形容をかぶせたものの盛り上がった皿を手にして、茫然としていると、今度は詩人が、これはどうやらあなたにはあわないらしい、ではこいつはあっさりしているから、こいつに、例の黄色いものや、深紅色のどろりとしたものをつけてお上がりなさい、」p.137
・「要するに概念がちがうのだ。極東の島とはちがうのだ。」p.140
・「もしおれがここに生れて……、と思うと、私はもう怖ろしくなって来る。その怖ろしさが、農村を少しばかり歩いてみて、身にぞくぞくと迫って来るのを覚えた。」p.141
・「夕暮れどきをちょっとすぎたくらいの時間に、カルカッタのダムダム飛行場に降り立ち、はじめて市中に車で入ったとき、途端に横面をはりとばされたような気がした。何にはりとばされたか。人口過剰、貧窮、街の汚さ加減などの千手観音の、その長い手の奥、その本体、本尊である「搾取」というものに。」p.150
・「帰国して、私はいろいろな人に、いろいろとインドの事情を聞かれた。(中略)そしてたいていの質問者の、最終的な疑問は、次の質問に帰着するようである。(中略)「そんなに貧しくって、非能率でのろくさくて、不潔で、官僚的で、古い宗教的なものが支配的なまでにありすぎる『後進国そのもの』なのに、いったい国際社会におけるネルーなんぞの偉そうな発言はどうしたわけのものなのか。あれは単なるハッタリなのかね、中味と外見がそんなにずれているんでは……?」」p.165
・「いかし、いったい何故インドのインテリ諸氏はかくも雄弁、あるいは超雄弁なのだろうか。」p.173
・「インドのある文学者と話していたとき、話題が不意に、人生の目的如何というような巨大な題目に入って行ったことがある。彼は言下に、目的は解脱(release)にある、といって私をおどろかせた。彼の考えと私の考えとは、根本的に対立する。私は解脱なんぞさせられてはたまったもんじゃない、と思っている。が一方では、心底では、不安でもあり空虚でもあるのである。」p.192
・「あるとき私は質問をした。 「しかし、それらはすべて死の思想ではないか?」 と。これに対して、言下に、 「しかり、しかるが故に生の思想である」 という返答をえた。」p.205
・「インドで、私はしばしば漱石のことばを思い浮かべた。そして、それと同時に、幾分の警戒心をまじえてではあったが、内村鑑三のことを考えた、特に『余はいかにしてキリスト教徒となりしか』という一書のことを考えた。」p.207
・「「その歩みがのろかろうがなんだろうが、アジアは、生きたい、生きたい、と叫んでいるのだ。西欧は、死にたくない、死にたくない、と云っている。」」p.210