ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

ブレークスルー

2008年10月29日 22時56分16秒 | 日記2005-10
研究のプログラミングでここ数週間悩みに悩んでいたところ、先ほど遂に壁を越えた。画面を滑らかに流れる数字の列からは確かな手応えが。

やってやったぜコンチクショー!!!

もうダメだ……、と思ったところの大逆転。特許でウハウハ生活も目前か!? まずは札幌の地下鉄沿線に『ぴかりんホール』(席数約500・オケ練習場、駐車場完備)を建て、毎日高級車を乗り回し食べ歩きながらの撮影旅行、それからえ~と……

明日また地獄に落ちないことを願う。
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【本】臨死体験の不思議

2008年10月29日 08時00分08秒 | 読書記録2008
臨死体験の不思議 至福の悟りが待っている!?, 高田明和, 講談社ブルーバックス B-888, 1991年
・科学とは無縁に感じられる『臨死体験』をテーマに据え、改めて科学的視点から迫る。『臨死体験』を仏教の『悟り』と結びつけて論じている点が特徴的。まとめとして、平田精耕老師(天龍寺派管長)との対談を収録。前出『死を見つめる心の科学』の姉妹書。
・自身、『臨死体験』の経験はありませんが、これだけ体験談を聞かされると、このような死を目前にした脳の特別な活動はあっても不思議じゃないのかなと思います。但し、あくまでも生理学の範囲の話で、霊的・宗教的な話までいってしまうと懐疑的になってしまいますが。
・『悟り』の境地に興味はありますが、そのために死にかけるのはカンベン。
・「事実、釈迦は、人生の最大の悩みを「四苦」、つまり、生老病死としましたが、それ以外にも「八苦」として愛別離苦、つまり、どんな好きな人とも必ず別れなければならないとか、怨憎会苦、つまり、どんな嫌いな人とも一緒に暮らさなければならないという苦しみをあげています。」p.14
・「そこで死の問題にもどりますが、死からもどった人、死を体験した人はいません。「霊の世界」とか、「あの世」とか言ったところで、実際にそこに行った人の話ではなく、霊媒師や宗教家などが、いかにもあの世を見たことがあるかのように話しているのを聞くにすぎません。  つまり、私たちにとって、死とは永遠に謎なのです。(中略)いったい、臨死体験は本当に "あの世" を垣間見た経験なのでしょうか。あるいは、これは死の直前の脳の変化による幻覚なのでしょうか。また、科学者はこれをどのようにみているのでしょうか。」p.15
・「もう一つ、私が興味をもったのは、臨死体験と、禅でいう「魔境」の関係です。これは座禅を続け、精神統一(禅定)が進んでくると、全身がなくなってくるような気がしてくることをいいます。(中略)このような魔境と臨死体験は、どこが違うのでしょうか。もし魔境と臨死体験が同じような感覚だとすると、魔境は悟りの一歩手前といわれますから、人が死ぬということは、案外、解脱の境地に入ることなのかもしれません。」p.16
・「禅では、「大死一番」などといって、一度精神的に "死ぬ" ことを要求します。有名な白隠禅師は、「若い衆よ、死ぬのがいやならいま死にゃれ。一度死んだら、二度とは死なぬぞ」と詠っています。」p.28
・「では、臨死体験は、死に近い人の何割くらいに見られるのでしょうか。  多くの統計では、40~50パーセント、ほぼ40パーセント台の半ばぐらいといっていいでしょう。」p.32
・「臨死体験を幻覚と同一視する研究者も少なくありません。とくに薬物によって幻想、幻覚が出現し、これが臨死体験としての報告とかなりよく似ている場合があるからです。しかし、本当の臨死体験の場合は、このような経験をしたあと人生観が一変してしまうということがあるのに、薬ではそのような状態に達することができないという点に、根本的な違いがあるようです。」p.39
・「また、臨死体験には、まったく幻覚にすぎないものもあることは事実でしょう。しかし、臨死体験には、精神構造の変化の持続性という特徴をもつ場合が多くあります。  このことは、臨死体験には解脱の精神状態に近いものがありうるのではないか――という本書の主題を支持するものと思えます。」p.50
・「このように見てきますと、臨死体験には、基本的には文化、教育、環境とは関係のない本質的な光景に、文化や環境と関係する因子が混在して形成されるといっていいようです。」p.80
・「以上をまとめますと、客観的に臨死の人は光を見たり、トンネルに入ったりする感じが臨死でない人より強く、また感情的には至福感などの陽性の感情をもつことが多いということがわかります。つまり、臨死体験は幻想や思い込みではなく、本当に死に瀕したときに起こることがわかると思います。」p.93
・「死に直面する事故や病気から生還した人は、不動心というか、未来の不安定要素や危険に対して、心の平和を保っていられるようになるらしいのです。アンケート調査のうち、七人は、もはや死の影におびえなくなったと明言しています。」p.101
・「次の、海で溺れて死にかかった女性の言葉は、この人たちの気持ちをすべて代弁しているといってもいいでしょう。  「私は人生や生きているものに、よりいっそう気づくようになった。しかも、まだ残りの人生があるうちに、これを楽しむことができて本当に幸せです。」  この言葉は、「臨死体験は悟りに近いのではないか」という考え方を支持しているように思われます。」p.108
・「ここまで読まれた読者は、臨死体験や危機的状況の自覚下で起こる現象には共通の点が多い、と感じられたに違いありません。つまり、臨死体験は、私たちの大脳生理とは無関係な、完全に神秘的な体験ではない、ということになるでしょう。」p.140
・「動物にとって幸せや快感というのは、存在の大きな理由です。したがって、動物の脳がなにかの刺激に対し、より快感を得る、つまり快感中枢のほうが不快の中枢よりはるかに大きいというのは、幸福感をもちやすい動物のほうが存在に適しているということです。」p.154
・「以上のことを考え合わせますと、臨死体験のときに見るイメージは、夢とはまったく異なる次元のものであることが、よくわかると思います。」p.181
・「時間は客観的には一定の速度で流れているというのが、ニュートン力学の基本でした。しかし、それ以前は、時間は時と場合によっていろいろな流れ方をすると考えられていたのです。」p.182
・「では、悟りとはなにかということになると、とても私には答えられませんが、一応、次のように述べておきましょう。  この世の森羅万象が仏性と呼ばれる不生不滅のものからなり、私たちの悩みや恐れは夢のようなものだということを自覚した状態。」p.215
・「臨死体験は、あくまでも生きているときの体験ですから、死後の世界を垣間見たことにはならないと、私は思います。」p.216
・「平田 われわれは、あなたがおっしゃったように、瞬時に生まれ瞬時に死んでいる。こういって、もう一分前の私は死んで、現在の私が生まれ変わって、いましゃべっている。」p.238
・「人間というのは、悪いことをしたから、今度はよいことをしましょう。こういう自由な選択意思があるわけです。そういう自由な選択意思と、それからどうにもならなかった過去のものとが合体して、瞬間、瞬間に生まれ変わり、死に変っているのが人間の実存だということでしょうね。」p.240
・「だから、もしキリスト教の人たちが、自分たちのもっている理論をいっぺん全部捨ててしまって、そして、理論を超えた世界へ入って、もう一度理論の世界へもどってきたら、ものすごく手強い理論ができ上がるだろうと思います。」p.246
・「Aの老師が「右へ行け」といったら、Bの老師は「あれは間違いだ。左へ行け」といわれた。それの出てくるもとのところへ帰って、あなたがAへ行かれようが、Bへ行かれようが、それはご勝手だ。そこは自分で判断するよりしかたがない。それが禅なんです。」p.249
・「絶体の集中というものは絶対の解放でなくちゃいけない。そうでなければ、車にぶち当たりますね。車が通るところを、パーッと専念して向こうへ安全に渡れる。悟りなんて、そんなことです。悟りという世界が特別に天国かどっかにあって、座禅していたらそこへ飛んでいくというものではない。」p.250
・「つまり、人は精神の集中が極限状態になると、自分の仏性(本性)が自分を自覚し、さらにそのときには、外界の様子が一変し、すべてが輝きわたって見えるというのは、ありうることだと思います。  この状態は、単に宗教的に精神を集中したのみでなく、死の危険にさらされたときにも起こりうるのです。」p.259
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