ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】ぼくのマンガ人生

2008年08月20日 08時01分54秒 | 読書記録2008
ぼくのマンガ人生, 手塚治虫, 岩波新書(新赤版)509, 1997年
・著者が亡くなったのは1989(平成元)年。もう20年も経つのですね。それは本書が出版されるよりも前の話というわけで、本書は著者が直接書き下ろしたものではなく、過去の講演録などを元に編み直し一冊の本にまとめたものです。自身の半生記や読者へのメッセージなどを平易な言葉で語っています。この他、著者と関係の深かった人たちからの文章や、巻末にはマンガ『ゴッドファーザーの息子』を収録。
・『マンガの神様』とも呼べるほどの大マンガ家ではありますが、意外にも、その作品を読んだことがあるのは『ブラック・ジャック』ぐらいです。手塚氏が一時期医者だったとは初耳でしたが、その経験があってのその作品だったかと大いに納得。本書のおかげで、他の作品も無性に読みたくなってしまいました。
・「家へ帰ると母が待っていて、「お帰り」と言うかわりに「今日は何回泣かされたの?」と聞く。ぼくは指を折って一回二回と数えて、「今日は八回だあ」なんてベソをかいて答える。それが日常だったのです。  そんなときに母が過保護なら、ぼくも甘えてしまって、負け犬のまま終わってしまったのでしょうが、母は決まって「堪忍なさい」と言いました。」p.4
・「ぼくは生来、父の血を継いで、いたってかんしゃく持ちな性格ですから、すぐカッとなります。(中略)しかし、そのつど、いまいましいとは思っても、なんとか腹の虫を抑えることができたのです。それはやはり、母から教わった「忍耐」が大きく作用しているのかもしれません。」p.5
・「ぼくはこんなに優越感を覚えたことはありません。おかげで学校でも、しだいにぼくに対してはいじめもなくなって、仲良しがふえてきました。これはマンガの功徳です。」p.12
・「なにしろ小学校三年生のとき図画の教師に、「君の描く人間はみんなマンガみたいになってしまうので、もうすこし、ちゃんとした人間を描いてごらん」と注意されたくらいです。」p.20
・「札幌を空襲するのに、B29は昭和新山の明りをめがけて行って、そこから角度を変えて札幌へ行くらしい。そこで、北海道の司令部のお偉方が、「あの昭和新山の火口の火を暗くしろ。大きな布をつくってあの上にかぶせろ」というようなことを言ったらしいのです。」p.63
・「「ああ、生きていてよかった」と、そのときはじめて思いました。ひじょうにひもじかったり、空襲などで何回か、「ああ、もうだめだ」と思ったことがありました。しかし、八月一五日の大阪の町を見て、あと数十年は生きられるという実感がわいてきたのです。ほんとうにうれしかった。ぼくのそれまでの人生の中で最高の体験でした。  そしてその体験をいまもありありと覚えています。それがこの四〇年間、ぼくのマンガを描く支えになっています。(中略)つまり、生きていたという感慨、生命のありがたさというようなものが、意識しなくても自然に出てしまうのです。」p.64
・「ぼくは、戦争中はまさかマンガ家になるとは思っていませんでした。ぼくは軍医になることになっていました。」p.68
・「ところが、ぼくは白衣を着て聴診器を持っているので、人前ではちょっとマンガを描けません。それで阪大病院の宿直室を借りて、夜になると宿直室へ入って、中から鍵を締めてマンガを描くのです。翌日、雑誌の編集者が患者みたいな顔をして玄関へ来ると、ぼくは医者みたいな顔をして行ってパッと原稿を渡すわけです。」p.72
・「人間がまだ動物に近かった頃、アフリカや東南アジアのジャングルの中で生活していた頃の人間には、そういう煩悩はあまりなかったと思うのです。(中略)しょうがないだろうというような、どちらかというとひじょうにさっぱりした素朴な考えで生命というものをとらえていたと思うのです。」p.82
・「どんなに科学万能になっても、人間は自分が神様のようになれると思ったら大まちがいで、やはり愚かしい一介の生物にすぎないのです。(中略)人間は生きているあいだにせめて十分に生きがいのある仕事を見つけて、そして死ぬときがきたら満足して死んでいく、それが人生ではないかというようなことを、ぼくはとっかえひっかえテーマを変えながらマンガに描いているのです。」p.89
・「ヒットラーにはじつはユダヤ人の血が混じっている。ヒットラーの母親の父親の母親がユダヤ人と結婚していた。それをヒットラーは戦争中、隠しに隠していた。知っている人間はごくわずかの側近だけで、戦争が終わるまではほとんど秘密にされていたのだが、そういう証拠が発見されている。」p.92
・「友達にしてみればいじめたつもりではなくても、兄にとってははじめての経験で「いじめられた」と被害妄想になっていたと思うのです。」p.97
・「兄にとってマンガを描くことは、ただ単に「好きだから」という一言につきます。「描かなくてはいられない」のだと思います。」p.107
・「たとえば、鉄腕アトムはミッキーマウスによく似ています。ミッキーには耳が二つあるでしょう。鉄腕アトムもかならず角が二つある。」p.111
・「ところが、ディズニーのアニメづくりには大きな欠点があったのです。  まず、ものすごく膨大なお金をかけているということです。(中略)もう一つ、人をとにかくやたらに使ったということです。」p.114
・「最近は、東映などでもだんだん枚数を使うようになってきました。『AKIRA』は、やはり4万5000枚ぐらいかけてつくっているので、動いているのです。それにくらべると、『鉄腕アトム』はまったく動いていません。」p.120
・「アニメーションのよさは、マンガとくらべてみると明らかです。マンガにはいろいろなものがありますが、どのマンガにも言葉が書いてあります。これは外国人には読めません。(中略)インターナショナルなものをつくれば、日本のアニメーションは海外に通用するのです。同時に、ぼくはアニメーションの手法はいま国際語ではないかという気がするのです。」p.121
・「父親という存在のなかで子供にもっとも尊敬されていい点は、勤労でしょう。働いている父親を見せることは、子供たちの人間形成にもっともよい薬です。」p.129
・「「手塚さんは、なぜいつも子供に受けるものが描けるのですか」とよく聞かれますが、とんでもない。仕事の一〇に一つが、子供に認められるかどうかといったところです。ことに、ぼくぐらいのキャリアになりますと、どうしても現代っ子の心情や話題がつかめないので、うんと若いマンガ家の作品を読んだり、子供たちと実際に接して、言葉づかいや流行を調べます。  だが、なかなか子供たちの本音を聞くことはむずかしい。」p.130
・「ぼくはテレビの一番大きな欠点は、とくに民放で、場面がどんどんかわることだと思います。つまり、たいへん深刻でほんとうに深く考えなければならない、あるいはクライマックスで非常に感激しなければならない場面になって、こちらがグッと心を入れたとたんに、コマーシャルがポッと出る。そこで感情が消されてしまうのです。(中略)そういう子供たちは、何を考えるにも、自分と距離をおいて考えるくせがついています。」p.135
・「子供にとって、自分にとって大事件である発見とか発明、あるいは創作を親に持って行ったときに、親が通りいっぺんの生返事をしたり、無視したりせず、そこでちょっと励ましてやるとか、かかわってやることが、いかに力添えになるかということをぜひともお話しておきたいのです。子供は結局、そういうことから親の隠れた人生観を受け取ってくれるのです。」p.138
・「いまの子供をめぐる状況のなかで、大きく欠けているものがあります。それは冒険です。(中略)冒険というのは何でしょう。それは言うまでもなく未知のものへの挑戦です。」p.146
・「そういうぼくの体験から言えることは、好きなことで、ぜったいにあきないものを一つ、つづけてほしいということです。(中略)大きくなってからは、少なくとも二つの希望を持ち、二つのことをつづけることです。いろいろな条件で一つが挫折することになっても、もう一つは残ります。」p.164
・「この「一期一会」という言葉はぼくの座右銘なのですけれども、みなさんの座右銘にもしてほしい。ある席で、ある場所でわずか一回だけ会った人たちが、自分の人生にとって重要な人かもわからないということです。」p.172
・「みなさんが海外に行くと、どうしてもその国の文明だけを見てしまうのです。文化のほうを見ないのです。」p.179
・「「おまえをいじめるやつがあったら みんなおれにいえ!」「おれがおまえを守ってやる!!」「いらんよそんなこと」「ぼくはだれの子分にもなれへんで」」p.195

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