Neurology 興味を持った「脳神経内科」論文

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横浜医学史散歩 ―ヘボン先生の足跡を辿って―

2023年10月14日 | 医学と医療
第27回日本神経感染症学会@横浜シンポジア(大会長 山野嘉久聖マリアンナ医科大学教授)にて,long COVIDについての教育講演をさせていただきました.少し早めに学会場をあとにし,趣味の医学史散歩をしました.横浜は安政6年(1859)の開港とともに,多くの西洋文化が流入しました.医学も例外ではなく,日本の医学の近代化に大きく貢献したのヘボン(James Curtis Hepburn: 1815-1911)に代表される外国人医師です.ヘボンは宣教師でもあり,またヘボン式ローマ字を広めた人としても知られています.

開港直後の1859年,180日の過酷な船旅を経て,妻のクララとともに横浜に上陸しました.ヘボンは44歳でした.来日後,成佛寺に住みながら,宗興寺において無料の診療を行いました(お寺に平気でキリスト教徒を住ませているところが面白いです).ヘボンの専門は脳外科らしいですが,おもに眼科の診療を行ったようです.3500人ほどの患者を診療したそうです.成佛寺は東神奈川駅から10分ほど歩いたところにあり,「史跡外国宣教師宿舎跡」の碑が立っていました(図1).



そこから5分ほど歩くと宗興寺があり,境内に「ヘボン博士施療所跡」の碑がありました(図2).



その後,ヘボンは1862年,国の方針に従い,居留地山下町に住居を新築します.現在の法務省横浜合同庁舎のそばで,元町・中華街駅から歩いて行けます.「ヘボン博士邸跡」という記念碑とお顔のレリーフがありました(図3左).ここで歌舞伎の名女形,澤村田之助の壊疽の手術をクロロホルム麻酔で行ったことが有名です.この田之助はドラマにもなったマンガ「JIN―仁―」にも出てきますが,じつはヘボンも1巻で,勝海舟の仲介で主人公の南方仁と会い,仁の手術の手伝いまでしています(図3右).話はそれましたが, 1892年に帰米するまでの33年間,ヘボンは多くの日本人と出会いながら日本に新しい文化を伝えました.



ヘボンの行動で一番驚いたのは,日米修好通商条約が締結され,宗教の自由が認められたのを確認すると,すぐさまニューヨークで開業していた医院と自宅を売却して,その同じ年に開国したばかりの横浜に上陸したということです.このような西洋人の熱意があって,日本の医学は発展したのだなと思いました.
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