本日はオタクの独り言です。
「灼眼のシャナ」をご存知無い方は、読まれないように!!
■ 「頭突き一発」で「灼眼のシャナ」は名作になった ■
たった一話の脚本の力が、これ程までとは・・・
アニメを何十年と見続けてきましたが、
「灼眼のシャナⅢ」の最終話の小林靖子の脚本には唖然とします。
「灼眼のシャナ」は中高生に大人気のライトノベルです。
この世と対を成す世界「紅世」から訪れる存在「紅世の徒(ともがら)」と、
それを滅する存在の「フレイムヘイズ」の戦いを描いたこの作品は
原作本22巻を掛けた「存在回復」の、壮大なストーリーです。
「未成熟であるという意味・・・ライトノベルの魅力」(人力でGO 2011.11.20)
http://green.ap.teacup.com/pekepon/584.html
この作品のアニメ版がこの度、最終回を迎えました。
原作もアニメも、ベストセラー故に不必要に引き伸ばされた感がありましたが、
壮大に広げられた作品世界という大風呂敷を、
どうやって畳むのか、非常に興味深くアニメ版を見ていました。
「頭突き一発」です・・・・。
エ?!、何それ?・・・とお思いでしょう。
「灼眼のシャナ」はその複雑に入り組んだ作品世界を
主人公シャナの「頭突き一発」で見事に収束させてしまったのです。
■ 集団で戦う事で全く魅力を失った作品世界 ■
「坂井悠二」は真面目な男です。
シャナをひたすら思う彼は、
「フレイムヘイズ」と「紅世の徒」が戦わなくても良い世界を願っています。
その為に創造神・祭礼の蛇と一体化し、敵対する「紅世の徒」の王となり、
フレイムヘイズに互いの存亡を掛けた戦いを挑みます。
幾千、幾万の徒達やフレイムヘイズの犠牲の上に、
彼は「この世」と「紅世」の間にもう一つの世界「ザナドゥー」を造り出します。
「フレイムヘイズ」に狩られる事無く、平和に人間の存在の力を狩れる「ザナドゥー」は
「紅世の徒」達にとっては、正に楽園と言えます。
一方、フレイムヘイズは正義ではありません。
この世と紅世のバランスを保つ存在である彼らは、
人の命など一顧にする事はありません。
彼らの関心は、世の秩序だけです。
徒達があまりに多くの存在の力を狩ると、
この世と紅世のバランスが崩れるので、
徒達の数を調整するのがフレイムヘイズです。
ですから「ザナドゥ」という新たな存在が、
この世と紅世にどの様な影響を与えるか分からないだけに、
フレイムヘイズは「ザナドゥ」建設を断固阻止するのです。
「紅の徒」と「フレイムヘイズ」は徒党を組んで正面衝突します。
これは戦争です。
ところが、「徒党を組んで戦う」事は、
徒とフレイムヘイズのアイデンティティーを著しく損ないます。
人の存在のはるか高みに存在する、
言わば、神や精霊にも似た存在の両者は、
本来は人の感情を持ちえません。
人の生き死になどは、ハナから無頓着なだけでなく
徒同士や、フレイムヘイズ同士ですら、仲間という意識など無いのです。
利害が対立すれば、徒同士、フレイムヘイズ同士も闘います。
そんな一種人知の外にある存在である「シャナ」が
人間「坂井悠二」との接触の中で、どう人の感情を獲得し理解するかが
この作品の一番の見所でした。
ですから、「シャナ」が「デレる」前のアニメ第一期が、最も魅力的な作品でした。
ところが、敵である「紅の徒」もバルマスケという一団を無し、
対するフレイムヘイズも「シャナと仲間達」が共闘するアニメ第2期は、
既に「シャナ」の魅力は半減しています。
そして、お互いの勢力が何千、何万と団結して組織立って戦うアニメ3期は
はっきり言って、見るに耐えない作品でした。
これでは、「人対人」の普通の世界の話と何ら変わりません。
シリーズを重ねる毎に、作品世界が変容してしまう事は、
ライトノベルや漫画では仕方の無い事です。
敵がいつのまにか味方になっていたなんていうのは、
ジャンプの漫画では当たり前の展開です。
しかし、シャナの世界の魅力は、
「シャナ」と「悠二」の価値観のすれ違いですから
フレイムヘイズ同士、紅の徒同士が馴れ合って戦う姿は、
作品が持っている魅力を著しく損なう事になります。
■ ただひたすら殺戮を繰り返す「正義」 ■
「シャナ」が他の凡百の作品と一線を画すのは、
正義の側であるフレイムヘイズが、
容赦ない殺戮を紅の徒に対して行う事です。
「大地の四神」をはじめ、力を持つフレイムヘイズたちは、
徒達を容赦無く殺しつくします。
目的は「ザナドゥ」に向う徒達に
「人を喰らう事の代償としての恐怖を植えつける」事。
徒の楽園であるはずに「ザナドゥ」に根源的な恐怖を植えつける事で
徒達が、新世界で無節操に人の存在の力を喰らう事に歯止めを掛けようというのです。
これは、論理的に疑問を感じる設定です。
フレイムヘイズの居ない世界では、徒達に脅威は存在しません。
恐怖の記憶は、前の世界の神話であって、
現実に新世界に渡った徒達は、やりたい放題で人の存在の力を食らうはずです。
ただフレイムヘイズによる「圧倒的な殺戮」は、
フレイムヘイズが「神」に近い存在ではあるが、
人にとっても、世界にとっても「正義」で無い事を思い出させます。
彼らは、バランサーとして相対的価値観の上に立っています。
そこには「絶対的正義」などは微塵も存在していないのです。
ここにおいて「紅の徒」と「フレイムヘイズ」の善悪は非常に不明確です。
「紅の徒」を率いる「坂井悠二」に憑依した「祭礼の蛇」は「創造神」と呼ばれます。
一方、シャナに憑依する「紅の王」は、
「天上の劫火」と呼ばれる「天罰神」言わば「破壊神」です。
人間の存在の力を狩るが故に、視聴者には「悪」と見える「紅世の徒」は
意外にもこの世を作った「神」に近い存在だったのです。
いえ、「神とは「創造」と「破壊」の一対の存在」という方が正しいのかもしれません。
■ 悪役?バルマスケこそが素晴らしい ■
これらの神々のモデルは西洋の「善悪」の対立の上に立つ神では無く、
ヒンドゥ教の神々や、ギリシャ神話の神々に近い、多神教の神です。
ですから、人知を超えた存在でありながら、非常に人間的でもあります。
「創造神・祭礼の蛇」に至っては、特にいい加減な性格で、
「坂井悠二」が腹に一物を抱いている事すら意に介しません。
新世界が出来れば、その細部には大した拘りは持っていないのです。
そして「創造神」をサポートする「紅世の王」達が「バルマスケ」です。
アニメ第2期は、「バルマスケ」とシャナ達の戦いを描いたシリーズで、
バルマス家は、「創造神」の復活を掛けてシャナ達と戦います。
このシリーズでは、バルマスケは「邪神」を崇拝する「悪」として描かれます。
ところが復活した「邪神」が、むしろ「創造」を司る事から、
「バルマスケ」=「悪」という図式も崩れ去ります。
特に3期目の後半での「千変・シュドナイ」の行動は、
世の理の変化に抵抗するだけのフレイムヘイズとは対照的です。
一種、男の美学に貫かれているとも言えます。
彼が従う「創造神・祭礼の蛇」が「ザナドゥ」に旅立った後も、
シュドナイは坂井悠二と行動を共にします。
シュドナイはどうやら意固地で頑固者の坂井悠二が嫌いでは無いようなのです。
皮肉屋のシュドナイは、巫女であるヘカテイを一途に想うなど意外に純真です。
ですから、シャナを想う悠二に最後まで付き合う覚悟を決めているのです。
■ 悪役にまで愛を注ぐ作品こそが名作 ■
悪役が人気を得る作品に駄作はありません。
シャナでは、シュドナイをはじめ、
巫女のヘカテイもアニメ版では人気がありますし、
何と言っても、バルマスケのマッドサイエンティスト「探耽求究ダンタリオン」は
いつもイカレテいて素晴らしい。
このあまりにもクセの強いキャラクターは、
監督の渡部高志ならではのキャラクターなのでしょうが、
とにかく狂っていて面白い。
そして最後まで喰えないキャラと想われていたベルペオールまでもが、
街を守る「自在式」を準備しておくなど、もおツンデレの極みです。
■ 「道理」を粉砕する「感情」 ■
魅力的な悪役という時点で、シャナは既に名作の風格を持っているのですが、
やはり、アニメ三期目は、ひたすら集団戦を描く事で話が拡大し過ぎました。
坂井悠二の理屈と、シャナの思いがすれ違い続けるので、
視聴者は悶々とした気分を味わいます。
しかし、最後の最後で、このダラダラとした戦闘の意味が明かされます。
坂井悠二は、この戦いで多くの犠牲を出します。
フレイムヘイズのみならず徒達も沢山死んでいます。
彼は人とフレイムヘイズと徒が共に生きる新世界を創造しながらも、
「多くの人を死なせた」自分はシャナと共に在れないと語ります。
新世界が本当に、共存の世界になる事を見定めなければ、
自分に幸せになる資格は無いと言うのです。
それに対するシャナの返答は、「頭突き一発!!」
「私は悠二の採点係りじゃ無い!!」
さらにそれに続いて、
「悠二、私の想い、受け止めて!!」
・・・・オイオイ。
何だよ、この脚本は・・・・と普段なら突っ込みます。
でも、シャナシリーズ全編を見てきて(ツマラナイ回も我慢して)
そして、最後がこのセリフだと、これが最高のセリフに思えるから不思議。
フレイムヘイズとして人の感情を捨てたシャナが、
人間としての、純朴な感情に回帰する一瞬です。
この純真さ、一種の幼さの間に、坂井悠二の理念や道理などは一瞬で粉砕されます。
シャナの全く飾らない想いが、
頭デッカチ人間の坂井悠二が自己を肯定せざるを得ない所に追い詰めます。
様は「私をどうしてくれるのよ」攻撃です!!
真面目な坂井悠二はこれを断る事が出来ない。
そしてシャナの想いを受け入れる事で、悠二の人間性が回帰します。
そんな結末を見越していたかの如く、
「螺旋の風琴、ラミー」の自在式が発動します。
存在の燃えカスであった悠二は、人としての存在を回復するのです。
■ 見事に大風呂敷を畳んで見せた脚本の手腕 ■
結果はある程度視聴者にも分かっていたとは言え、
「灼眼のシャナ」はあまりにも大風呂敷を広げ過ぎていまいた。
登場人物も三期目で格段に増えてしまいました。
それをどう畳むのか、興味深々でしたが、
脚本の小林靖子は、物語は逆回しする事で見事に収束させます。
(原作もそうなのでしょうが)
シャナと悠二の周りには、
マージョリーとシュドナイだけが残ります。
この二人の激突が最終輪の真骨頂です。
既に二人に戦う理由など存在しないのですが、
それでも二人は互いの意地で戦いしか選択の余地がありません。
この強大な力を持つ二人のバトルは、
ともすると「痴話喧嘩」にしか見えないシャナと悠二の戦いに
スペクタクルの華を添えます。
マージョリー・ドゥとその紅世の王たるマルコシアスのコンビは、
最高の掛け合いを見せてくれますが、
その最後の一世一代の自在式の「即興詩」がコレ・・・
「誰がコマ鳥を殺したか?」
「誰が処置を受けたのか?」
「誰が墓穴を掘るのかねえ?」
「誰がお悔やみ受けるのか?」
「誰が調子を吹くのかね?」
「かわいそうだねコマドリさん!!」
いつもながら訳が分かりませんが、
これってマザーグースですね。
マジョリー・ドゥとい名からして
マザーグースの一節です。
「シーソー・マージョリードー
ジャッキーはおやかた帰るってさ
かせぎは一日 一ペニー
なぜってやつは、とってものろま」
本家本元のマザーグースもやはり意味不明です。
■ 最後にこの絵は泣けます ■
さて、物語は「螺旋の風琴ラミー」の自在式で、
存在の力を喰われ過ぎて安定を失った町を元の姿に返す事で結末を見ます。
壮大なストーリーのきっかけとなった、
クラスメイトの平井さんの存在も回復されます。
しかし、平井さんの存在に割り込んでいたシャナの記憶は
クラスメイの記憶から消え去ります。
そして、エンディングタイトルでちらっと写る絵は、
存在が消えかけた平井さんの想いを遂げさせるため、
坂井悠二が親友の池と3人で取ったプリクラ・・・。
そこからは坂井悠二の姿は消えています。
・・・こういう脚本と演出にはシビレます。
「杓眼のシャナ」のアニメシリーズは、
第2期、第3期と随分とダメダメでしたが、
最終回のたった一本によって、そのダメダメ振りも、
この一話だけの為にあったのだと思えてしまいます。
脚本と演出がいかにアニメにとって大事かを
痛感させる作品として、「灼眼のシャナ」は語り継がれるでしょう。
PS
シャナの対局にあるのが「ギルティークラウン」でした。
最終回での大逆転どころか、ダメ押しの満塁ホームランを打たれた感じ・・。
作画と、音楽、そして物語のネタは素晴らしいのに、
なぜあんなにも不快な作品が出来上がるのか不思議です。
きっと、プロダクションIGの若者は、
キャラクターは道具だと想っているのでしょう。
シャナの様に、名前が存在するキャラクターは一人として粗末に扱わないという
「キャラクター愛」に貫かれていなければ、名作は生まれません。