■ 「やさしい名前」の暴力 ■
市民の革命や暴動に「やさしい名前」を付けるとイメージが一変します。
「プラハの春」は共産党政権化のチェコスロバキアで
市民の起した反乱運動でした。
しかし、ソ連軍の戦車が市民革命を無残にも蹂躙しました。
この事件以来、政府に抵抗する市民運動や市民革命に
「やさしい名前」が付くようになります。
ウクライナの市民運動に付けられた「オレンジ革命」や、
中東の市民の蜂起に付けられた「中東の春」などが良い例です。
ところが、これらの「やさいい革命」の背後には
CIAなどの諜報組織が暗躍しているのが常です。
この様に市民運動や市民の暴動に
「やさしい名前」を付けて印象操作を行う手法は、
「プラハの春」以来のメディアの常套手段となっています。
「やさしい名前」は、市民運動の政治的対立構造や
市民革命の持つ暴力性をやさしく包み込み、
権力に対峙する市民達を、純粋で無垢な存在に見せかける手助けをします。
■ 時代と共に変化する「革命」 ■
従来、日本において「デモ」とは極めて政治的行動でした。
全共闘の闘争や、労働組合の活動が、
日本におけるデモの基本イメージです。
ですから、日本人がイメージする「デモ」という言葉には、
無意識的に暴力のイメージ重なります。
「革命」という言葉にもかつては「暴力」のイメージが濃厚でした。
フランス革命に端を発する市民革命は、
やがてソビエトに代表される社会主義革命へと進化して行きます。
ところが、共産圏の崩壊と共に「革命」のイメージが変質します。
そもそも共産圏の崩壊自体が「市民革命」によるものだったので、
「革命」という言葉が、「市民による平和の訴求」へとイメージチェンジしたのです。
さらには「革命」を知らない日本の若い世代が
「革命」という言葉を「オシャレ」な言葉として使い始めます。
「チョコレート革命」、「オシャレ革命」などと言う
甘酸っぱい言葉とセットにすると、革命のオシャレ度は格段に向上します。
この様に「革命」という言葉自体のイメージも、
「革命」という言葉の用法も時代と共に変化をしています。
現在では「革命」という言葉からは
「暴力」では無く「平和」のイメージが漂う様になりました。
■ 「あじさい革命」という「無垢な暴力」 ■
反原発を訴える市民が首相官邸の周囲をデモ行進し、
彼らはその活動を「あじさい革命」と自称しています。
「原発に反対する市民の革命」とか、
「原発再稼動を絶対阻止する市民集会」などというよりも、
はるかに「情緒」があり、6月の梅雨空に似合う名前です。
「私、きのう『アジサイ革命に』に参加したよ。」と職場でOLが語るのと
「私、きのう『原発再稼動に反対する市民集会』に参加したよ。」と語るのでは
そのイメージは大きく異なります。
「アジサイ」という、「ひっそり」と咲く花を選んだセンスも秀逸です。
このデモに参加された方々は、
原発再稼動に踏み切る「政府の暴力」に、
雨に打たれるアジサイの花の様に、健気に抵抗するという
脳内イメージに酔っているのかも知れません。
しかし、このデモの参加者達のどれ程の人達が、
自分で科学的情報を調べたりしたでしょうか?
彼らに問えば「ネットで原発と放射線の恐さは沢山調べた」と答えるでしょう。
しかし、これは「科学的」ではありません。
「科学」とは、反証も含めて検討する必要があるからです。
特に「放射線の影響」は、科学的には確定していません。
ですから、ニュートラルな立場で、「危険」と「安全」を検証しなければ、
「放射線について調べた」とは言えないのです。
少なくとも「強制非難地域が解除された地域でに放射線の影響はほとんど無視できる」
というのが、科学的な常識というものです。
福島の地を離れる事の出来ない人達は、
本当は安全であるにも関わらず、
福島とは直接関係を持たない多くの市民の
「放射線はとっても危険だ」という声に、心の平穏を乱されています。
自分や家族は、きっと将来癌になるのでは無いかと
不要な不安に怯えています。
ところが、デモ参加者は「あじさい革命」という名前とは裏腹に、
「善意の暴力」を自分達が振るっているという事に彼らは無自覚です。
デモ参加者の「純真で真剣な表情」を見るにつけ、
「無垢な善意」は時には悪意よりも残酷である事を思い知らされます。。
■ 政治利用される「無垢な善意」 ■
もし9月に総選挙があるならば、争点は「消費税」と「脱原発」です。
「脱原発」を争点とした選挙は、ドイツに前例があります。
脱原発を主張した「ドイツ緑の党」は、環境派、市民派の政党として知られています。
ところが、「ドイツ緑の党」が「ドイツ赤軍」の残党である事を知る人は少数です。
「社会主義の崩壊」で思想的拠り所を失った「ドイツ赤軍」は、
看板を「赤」から「緑」に架け替えることで、見事に復活したのです。
そして急進派の反原発活動家として知られるクリス・バズビーは、
ドイツ赤軍のメンバーだったのです。
しかし、バズビーは原発詐欺商売が発覚して、
現在では「緑の党」からも距離を置かれています。
ここで注意が必要なのは、「ドイツ赤軍」が「緑の党」に変身する動機です。
社会主義の崩壊は「ドイツ赤軍」の存在理由の否定になります。
そこで彼らは、政府との新たな対立軸を模索する事になります。
その頃、リベラルな市民の間では環境意識が高まっていました。
そこで「ドイツ赤軍」は、この様な市民活動に浸透し、
やがてはそれを指導する事で「緑の党」という一大政治勢力を築き上げます。
そして終には連立内閣の一員として、「脱原発」を勝ち取るのです。
その結果国民に課せられたのは、高い電力料金でした。
一方で企業はフランスの安い原発による電力を利用しています
■ 「脱原発」と「消費税反対」で「市民政党」に化ける「小沢新党」 ■
「国民の生活が第一」と訴えて政権を取った民主党は、
かつての「社会主義政党の成れの果て」でした。
いえ、「社会主義政党の成れの果て」を、
小沢一郎が政治利用して出来上がった「寄せ集め政党」でした。
ところが、「消費税増税」と「原発再稼動」で、
本来市民勢力であった民主党は、市民と対立する政党になってしまいました。
世間で言われるとおり、自民党と民主党の区別が付かなくなってしまいました。
アメリカでは共和党は「強者の為の小さな政府」を主張し
民主党は「弱者の保護を目的とした大きな政府」を主張します。
この対立軸は明確なので、2大政党制は崩れる事はありません。
日本の民主党は管元首相が「消費税増税」を打ち出した時点で、
存在価値を失ってしまいました。
その事に自覚的な小沢一郎は、
たとえ離党になるとしても「消費税増税反対」を貫きました。
「消費税増税反対」と「反原発」をセットにすれば、
充分、次回の選挙で勝算があると判断したのです。
これは「ドイツ赤軍」が「ドイツ緑の党」に変身した状況に似ています。
しかし小沢氏はクリーンなイメージが無い。
だから看板だけ架け替えても、世間が小沢氏を支持するとは限りません。
そこで次回の選挙で、小沢氏は思い切り橋本大阪市長に擦り寄るはずです。
それには「反原発」を共通テーマとする事が尤も分かり易い。
「平成維新の会」はかつての小沢氏の主張を代弁するかのような党です。
一方、現在の小沢氏は、かつての自身の主張を180度ひっくり返して
「国民の生活が一番」などと言っています。
本来、この両者がくっ付くはずなど在りえないのですが、
「選挙に勝って政権を取る」という目的の為には、
主義など二の次、三の次というのが小沢氏の政治手法です。
さらには現在の「国民生活が一番」という主張は、
自民党に対立する為にデッチアゲタ主張なので、
従来の小沢氏の政治ポリシーは橋本氏の主張に近い。
結局、両者の目的が「官僚機構の破壊」であるならば、
次回選挙で、小沢・橋本のタッグも在り得ます。
■ 橋本氏に袖にされて終わる小沢一郎 ■
尤も、新しい時代の政治家である橋本氏は、
ツイッターなどを通じて国民に直接的にコミットしてきます。
その点。、小沢氏は30年も50年も古い政治家です。
私は橋本氏は、小沢氏の持つ「古くてダーティーなイメージ」を嫌うと思います。
小沢氏との連携は、橋本氏のイメージを著しく損ないます。
私は橋本氏は小沢氏のラブコールを絶対に受けないと思います。
むしろ、選挙で大敗した自民党と民主党の「上げ潮派」を吸収したり、
みんなの党との連立を模索するでしょう。
ここに至って、「古い政治」は完全に力を失い、
初めて「都市の浮遊票」を票田とする政党が誕生するのでは無いかと思われます。
民主党は労働組合の党に逆戻りし、
自民党は公共事業を基盤とする地方の利権を代表する党になってゆくでしょう。
■ 「反原発」と「消費税反対」が日本にもたらすもの ■
私は世界の中の日本を考えた場合、
ジリジリと衰退するよりも、
橋本氏の主張する様に、都市の成長力を高めた方が将来は良いと考えています。
一方、それは地方の衰退と同義であり、
また、都市の中の弱者の切捨てで同義でもあります。
日本人の多くが、「反原発」と「消費税反対」に目がくらんで、
結果的に現在の「ナマヌルイ」生活を決別する事になるのでしょう。
「あじさい革命」という「やさしい響き」の裏に隠れる危機に
どれだけの人が気付いているのでしょうか?
そういう視点で冒頭の映像を見ると、
「善意の暴力」という言葉の意味も理解して頂けるのではないでしょうか・・・。
「無垢な善意」とは、時として自分自身に跳ね返って来る暴力にんなるのです。