昨日、娘と『おおかみこどもの雨と雪』を観てきました。
この映画を語る言葉を、今の私はあまり持ち合わせていません。
細かい演出がどうのとか、
ジブリと比べてどうのとか、
所謂アニメ論では、この作品は語れません。
表現者は普通、自分の主張を作品に込める時
「相手に伝えたい」という意識が強く働きます。
だから、思わず何かを「表現」してしまいます。
細田監督の『サマーウォーズ』は
この表現者としての「性(さが)」が強く働いた作品でした。
それが、良く言えば、密度の高さを生み出していましたが、
悪く言えば、作者の主張を観客に「分かり易く」伝えようとするあまり
観客が自分で考えたり、想像したりする「隙間」までもが
「表現」で埋め尽くされた感じを受けました。
観客は授業を受ける生徒の様に、
作品に対して、「正解」の解釈しか出来ないのです。
ところが『おおかみこどもの雨と雪』は
表現者である細田守は、ひっそりと姿を隠しています。
ドキュメンタリー映画を取る様に、
一人の母親が、オオカミ男との間に生まれた二人の子供を
必死で育てる姿を、淡々と写し出してゆきます。
シーンの繋ぎは、小津映画の様にバッサリとブラックアウトします。
ホームビデオをラフに繋いだ様な「間」がそこに現れ
時間の経過を暗示します。
そして、そのブラックアウトの間に
親子が積み上げてきた時間の重みを、観客は感じ取ります。
子供達の成長に合わせてテンポも変化します。
現代のおとぎ話として始まり
おおかみ子供の生態を、生き生きと映し出した映像は
いつしか、自然と社会の狭間に生きる「おおかみこども」の不安に覆われます。
人として生きたいという意思。
オオカミとして生きたいという意思。
二つの意思の葛藤を、映像は否定も肯定もせずに
ただ、丁寧な映像の積み重ねで表現してゆきます。
主観を廃した表現によって、
観客は次第に母と子供達の心にシンクロしてゆきます。
人の視線に恐怖したり、
自然の移ろいに感動したり、
日々の生活に必死になったり・・・。
そこで生まれる感情を、
文章にする事は不可能です。
この映画に「正解」は存在しません。
だから、劇場に足を運んで実際に体験するしか無い。
この作品に富野監督がメッセージを寄せていますので引用します。
http://mantan-web.jp/2012/07/20/20120720dog00m200050000c.html
<引用>
◇富野由悠季監督のコメント全文
「おおかみこどもの雨と雪」の衝撃 富野由悠季
新しい時代を作ったと言っていい。革新を目指していると言ってもいいだろう。が、作者であり監督は、そこまで意識していたかどうか。手法を追求していったらこうなったのかも知れない。
どうであれ、本作の前では、もはや過去の映画などは、ただ時代にあわせた手法をなぞっているだけのものに見えてしまうだろう。
本作は、変身物でもなければ、恋愛物でもないし、エコやら環境問題をあげつらったメッセージ物でもない。まして癒やし系でもない。
それら過去のジャンル分けなどを飛び越えた物語になっている。描写が冷静だからだろう。文芸大作と言っても良い。それほどリアルに命の連鎖を描き、子供の成長の問題を取りあげている。そこに至った意味は刮目(かつもく)すべきなのだ。
むろん、技術的に気になる部分があるのだが、細部の問題などには目をつぶれる。しかし、アニメならではの手法で可能になっている構造でもあるので、アニメ映画というレッテルを貼られてしまうのが、無念ではある。
このような作品に出会えたことは、同じ作り手として幸せである。
アニメの可能性を開拓してくれたのだから、本作に関係した監督以下のスタッフに敬意を表する。
<引用終わり>
富野ファンは、これを褒め言葉とは取っていない様です。
富野氏はツンデレですから、
かつて『エヴァンゲリオン』を酷評した様に、
嫉妬を覚えるような才能に厳しい。
これだけ手放しに褒めるという事は、
細田作品が、富野氏のフィールドとは別のフィールドにある事を示しています。
ただ、あれだけの表現者が手放しに褒めるのだから、
この作品がいかに表現者富野にインパクトを与えたかが伺い知れます。
一方、ジブリ作品のプロデューサーの鈴木氏は
<引用>
また、スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーも同アニメを鑑賞。コメントの代わりに、直筆のイラストと「おおかみこどもの雨と雪。ずっとお母さんと一緒、だけど…。」というメッセージを色紙に書いて作品を評価している。
<引用終わり>
今回の細田作品を、固唾を飲んで見守っていたのはジブリ関係者でしょう。
作風としてジブリ映画と市場がかぶる細田映画が、
ジブリ作品を「過去の遺物」として葬り去る出来栄えなのか、
彼らは戦々恐々としていたはずです。
ジブリの若手クリエーターに細田守に匹敵する才能は存在しません。
だから、完全にジブリのフィールドである「母と子」というジャンルに
正面から挑戦してきた『おおかみこどもの雨と雪』が
お母さんと子供達の間で大ヒットすれば、
ジブリの将来に暗雲が立ち込めるからです。
鈴木氏が色紙に書いた短い文の最後、
「ずっとお母さんと一緒。だけど・・・。」に
鈴木氏とジブリの万感の安堵が伺われます。
ジブリ映画を楽しみに観に行くような親子は、
かつての『トトロ』や『ラピタ』の感動の欠片を作品の中に探しています。
だらかジブリはその「欠片」を上手に作品の混ぜておけば、
「やっぱり、ジブリの映画は素晴らしいね」という評価が得られます。
これは一種の「ブランド戦略」です。
細田映画が観客に媚びて、「ジブリ・エッセンス」を作品に混ぜたら、
今のジブリでは全く対抗できません。
しかし、細田守は全く逆の選択をします。
作品から「こうしたら感動するはずだ」という要素を
徹底的に削ぎ落としてゆきます。
「オオカミと人間の間に子供が生まれたら、
その母親と子供達はどうやって社会を自然と関わってゆくのだろう」
という純粋な興味の答えを
学問のフィールドワークをする様に
客観的な視点で、丹念に積み上げてゆきます。
これは、自然番組のドキュメントの手法であり、
あるいは「密着大家族」の様な、
人間の生活や、子供の成長の観察ドキュメントでもあります。
母親や子供達の選択に対して
細田守は一切の主観を廃しています。
ドキュメンタリーフィルムの作者の様に、
自分の生み出したキャラクター達の人生の選択に
作家、細田守は干渉する事を避けたのです。
人の手によって生み出されたキャラクター達が
自らの意思で、人生を選択してゆく・・・
そんなあり得ないシチュエーションを、
難なく観客に納得させてしまう程の力が
この映画には満ちています。
「夏休みにお子さんとご一緒に」などという生優しい映画ではありません。
表現者と作品の関係性の根幹を揺るがす作品と言えます。
それが大衆に受け入れられる事はありません。
大衆はディズニーやジブリの作品の様に、
楽しみ方がマニュアル化した作品を好みます。
ですから、この作品が大ヒットする可能性は低いはずです。
ただ、劇場を出た大人も子供も、
この親子の未来を、一生気にかけていく事になります。
実際には存在しないキャラクターが、
観客の心に中には、確かな存在として息づいているのです。
これと同じ領域に達している表現者は一握りです。
『クレヨンしんちゃん あっぱれ、戦国大合戦』などの
原恵一の一連の作品を観た後の感覚に似ています。
空に浮かぶ雲を見て、おおかみこどもの雨と雪は
今頃はどうしているのだろうと・・・ふと思ってしまいます。
実写も含めた、現代の映像表現の
一つの到達点がここにあります。
<追記>
今年の春から高校を卒業して一人暮らしを始めた息子から
家内の携帯にメールがありました。
「おおかみこどもの雨と雪、すげーイイ」
家内は早速、劇場へ出かけて行きました。
「どうだった?」と聞いた私に、
「最後、凄く泣いちゃった」とだけ・・・。
多くの母親達が、「おおかみこども」の成長に、
わが子の成長を重ねて見るのでしょう。
この作品を見た、日本中の母親達が、
この作品の母親に、自分の姿を重ねているのかもしれません。
劇場版予告の第三弾です。
フルスクリーモードで見たい方は下から。
http://www.youtube.com/watch?v=PohjJpxjho4&feature=relmfu