続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

衣笠山。

2013-11-09 06:43:52 | 日常
 地元にある馴染みの衣笠山は桜の名所である。 
 お花見の季節になると、何となく行く。何となく歩く・・・ゆるい坂道をゆっくり登っていく、そういう散歩気分の気軽さで愛されている山だから、Yさんなどは「買い物のついでに一巡りして来たわ」などと言っている。

 子供のころ一家でお花見に出かけたことがある。酒飲みの父は自分が呑むお酒が空になると「さぁ帰ろうか」とあっさり言い、わたし達は坂を下り出した。
 ところが父の友人一家に途中で出会ったら、友人の提げていた一升瓶を見て「もう一度行くかな」と言って、家族を放り出して自分だけ再び友人一家に同行し、去って行ったというやるせない記憶がある。(お花見を心から楽しめないトラウマになっているかもしれない)

 
 ところで今はもう秋、と言っても三浦半島では紅葉は望めない。「赤く色づいた葉を見たら、それは○○です」と古山さんが教えてくれたけど・・・なんだったか葉の形は覚えているのに名前が出てこない。確か実は蝋燭になるとか・・・。
《ハゼだ!》
 ハゼの木だけぐらいが紅葉の三浦半島だけど、秋にはやっぱりそれなりの風情があって、第一風が違う、空気が違う。


 その衣笠山に今日はバードウオッチングで行く。

『ポラーノの広場』145。

2013-11-09 06:32:16 | 宮沢賢治
 いよいよ近くなってわたくしはこれこそはもうほんもののポラーノの広場だと思ってしまひました。さっきの青いのは可成大きなはんの木でしたがその梢からはたくさんのモールが張られてその葉まできらきらひかりながらゆれてゐました。その上にはいろいろな蝶や蛾が列になってぐるぐる輪をかいてゐたのです。


☆襟(心の中)の講(話)は常に、死である。
 精(霊)の化(形、性質を変えて別のものになる)の常である題(テーマ)は黙している。
 帖(書付)の要は、照(普く光があたる=平等)である。
 帖(書付)の我(わたくし考え)を、烈しく臨んでいる。

『城』1440。

2013-11-09 06:10:08 | カフカ覚書
馭者のほうは、もっと長く中庭に残っていた。橇の後始末がたいへんだったのである。重たい扉をあけ、橇を後退させながらもとの場所にもどし、午をはずし、秣槽のところへ連れていかねばならない。彼は、こうしたすべての仕事をまじめに、一心不乱にやっていたが、すぐまた出かける希望はまったく棄ててしまったらしい。

 中庭/Hof・・・(天)太陽の暈、ハロー。
 仕事/Arbeit→Alibi/現場不在証明。
 馬/Pferde→Pfand/担保、抵当。

☆会堂番は長くハロー(死の入口)に留まっていた。書いたものに死の現場不在が在ったからである。困難で堅苦しい書いた物(書物)を、遡ってすすめ、抵当をはずし、飼葉桶(キリスト誕生か)までいかねばならなかった。彼はこうしてすべてのことを一心不乱にやっていたが、先祖はすでに希望を棄て、すぐに運ばれてしまったらしい。