2010年 神奈川県立近代美術館で催された『渡辺豊重展』のポスター。
金地に黒の彩色・・・それきりである。
金はつまり光、黒は闇。存在と無、あるいは昼と夜、栄華と暗澹・・・。しかし画面は混沌としたものでなく、単純明快闊達。黄金色と黒との対比は等分を意識したものと思う。
《鬼》「鬼と遊ぶ」というサブテーマ。
作家の対峙している精神の闇。金(光)と黒(闇)とのせめぎ合いの抽象化・・・。
一般に点を三つ描けば人の顔を想起させ、棒を二本描けば、それは手であり足を想起させる。この場合どうしても、直立した足を思い起こさせる。闇の形は身体中に溢れんばかりの秘めた活力(あるいは妄想)の形を成し、踏ん張ったような足は明らかに挑んでいる、否、躊躇している。作品に遮蔽された内面の形は多面性を孕んでいる
画面を支配する黒の強い形は偶然を模した意図ある形であり、(作家の中の)鬼という他者の存在であると同時に、鬼という得体の知れない魔物が棲んでいる自分でもあるのではないか。。
この形・・・自然界のどの形であってもならない有り得べからざる形を求めての黒は、どうしても作家に辿り着くような気がする。
しかし、『このものは自分(わたくし)ではない、断じて!』「だから、つまり《鬼》なのです」
作家の静かなる激闘を感じる作品である。
金地に黒の彩色・・・それきりである。
金はつまり光、黒は闇。存在と無、あるいは昼と夜、栄華と暗澹・・・。しかし画面は混沌としたものでなく、単純明快闊達。黄金色と黒との対比は等分を意識したものと思う。
《鬼》「鬼と遊ぶ」というサブテーマ。
作家の対峙している精神の闇。金(光)と黒(闇)とのせめぎ合いの抽象化・・・。
一般に点を三つ描けば人の顔を想起させ、棒を二本描けば、それは手であり足を想起させる。この場合どうしても、直立した足を思い起こさせる。闇の形は身体中に溢れんばかりの秘めた活力(あるいは妄想)の形を成し、踏ん張ったような足は明らかに挑んでいる、否、躊躇している。作品に遮蔽された内面の形は多面性を孕んでいる
画面を支配する黒の強い形は偶然を模した意図ある形であり、(作家の中の)鬼という他者の存在であると同時に、鬼という得体の知れない魔物が棲んでいる自分でもあるのではないか。。
この形・・・自然界のどの形であってもならない有り得べからざる形を求めての黒は、どうしても作家に辿り着くような気がする。
しかし、『このものは自分(わたくし)ではない、断じて!』「だから、つまり《鬼》なのです」
作家の静かなる激闘を感じる作品である。