素足で歩くことの痛々しさに、痛みを緩和するための処方を考える。生きるための知恵である。
まず《火》を発見し、情報を伝える《言葉や文字》の手段を手に入れた人類の歴史。 他の動物より優位に立ち、利便性(食用/生活用品)のために動物のを平然と行っている。人間の当然の権利であるかの錯覚・・・同じ生物として相手の生命を頂くことの痛みは素足で歩くことの比ではない。
《赤いモデル》・・・捕獲した動物を気絶させ、放血して殺すことのおぞましさ。
わたし達はこの慣習に目を瞑り、人間の優位を特権として日常生活を送っている。
今を生きるものの生命を頂く、その尊厳を奪うことの罪には触れない。同等である人殺しは需要な犯罪であるにもかかわらず・・・。
人間の奢り、罪深いことを悟ったうえでの日常に犠牲というものの本質を問うべきだという訴えである。
(写真は国立新美術館『マグリッㇳ』展/図録より)
第二日曜
オツベルときたら大したもんだ。それにこの前稲扱小屋で、うまく自分のものにした、象もじつさい大したもんだ。
☆題(テーマ)は字で化(教え導くこと)が要である。
他意は全(すべて)等(平等)を扱っている章(文章)也。
二つに部(区分けしたところ)は、照(あまねく光が当たる=平等)が他意である。
なかなか調子よくいくもんですよ。もちろん、陳情者が腰をかける場所はありませんが、それくらいのことは我慢してくれます。連中にしても、自分たちが立っていて、調書をとる人間が居心地よくしtくれているほうが、よい場所にすわって相手からどなりつけられるよりも、気持ちがよいでしょうからね。
☆それはうまくいくでしょう。関係者はもちろん小舟に腰かけていますが、耐えているのです。それにもかかわらず、彼らの抵抗に、記録をとる人は快適な場所に居続けると同時に怒鳴りつけているのです。